ある晩、月明かりが薄暗い路地を照らしていた。谷間にある街の外れ、普段は静まり返っているはずのその場所が、今夜は何かが違っていた。怪しい音が漏れ出し、まるで何かが呼んでいるかのようだった。男は、その音に引き寄せられ、無意識のうちに路地へと足を踏み入れた。
周囲は薄暗く、古びた家々が立ち並んでいる。その中の一軒から、かすかに光が漏れ、異様な雰囲気を醸し出していた。男は心臓が高鳴るのを感じた。「何かおかしい」と思いながらも、好奇心が勝ってしまう。まるで、誰かが自分を待っているかのように感じられた。
その家の前に立つと、男はドアの隙間から覗いてみる。中では、数人の人々が集まっていた。彼らは黒いローブを身にまとい、顔を覆っていた。祭壇の上には、奇妙なシンボルが描かれた布が敷かれ、その中心には何かが置かれている。男の視線はそれに釘付けになった。それは、どこか生々しい生物のように見えた。
男は、胸の鼓動が高まるのを感じた。恐怖と興奮が入り混じり、彼の思考は混乱していく。「これは一体何なんだ?」彼は自分自身に問いかけた。だが、その問いに対する答えは、無情にも響き渡る祭りの音にかき消されてしまう。
「見てはいけないものを見てしまったのか?」彼は心の中で叫んだ。その瞬間、彼の背筋に冷たいものが走った。男は後ずさりしようとしたが、足がすくんで身動きが取れない。恐怖が彼を固まらせていた。ローブを着た人々が歌い上げる声が、どこか神聖でありながら、不気味に響く。
「逃げなければ!」と心の中で叫び、ようやく足を動かした。しかし、彼が振り返った瞬間、ドアが開き、ローブを着た一人が彼の視線を捉えた。目は見えないが、無言の圧力が彼の心を掴んだ。男は恐怖で息をのむ。
「お前は、ここに来てはいけない者だ」と、その声が低く響いた。男は自分の心臓の音だけが響くのを感じ、恐怖に凍りついた。彼はなぜ自分が選ばれてしまったのか、何も理解できなかった。祭りの場にいることが、彼にとってどれほど危険な行為なのか、想像もつかなかった。
その瞬間、男の心に一つの思いがよぎった。「逃げなければ、何が起こるかわからない」。彼は全力でその場を離れた。足音を響かせながら、暗い路地を走り抜けた。背後からは、ローブを着た人々の歌声が追いかけてきた。
何度も振り返りたかったが、恐怖がそれを許さなかった。彼はただ、逃げることだけに集中した。月明かりが背中を押すように照らし、彼の逃走を助けてくれた。冷たい風が彼の頬を撫で、心臓の鼓動が耳に響く。
ようやく人通りの多い通りに出ると、男は息を切らしながら立ち止まった。振り返っても、そこには何もなかった。ただ、静寂が広がるだけだった。しかし、彼はその静寂の中に、あの祭りの音がまだ耳に残っていることを感じた。
「一体、あれは何だったんだ?」男は自問自答した。背筋に感じる寒気が、彼の心をざわつかせる。恐怖に満ちたその光景が、心の奥に焼き付いて離れない。彼は自分が見たことを誰かに伝えたいと思ったが、言葉にはできなかった。誰も信じてくれないだろうと、恐れが頭をもたげる。
家に帰る道すがら、男は周囲の景色を見渡した。普段は穏やかな街が、今はまるで別の顔を持っているように思えた。人々の笑顔が、どこか仮面のように感じられた。彼は、自分が見たものが他の誰にも見えないことを考え、心の奥に恐怖が巣食う感覚を持った。
その日以降、男はあの祭りのことを忘れようとした。だが、夜になると、あの祭りの音が耳に残り、夢にうなされる日々が続いた。彼は心のどこかで、あの祭りが再び彼を呼び寄せるのではないかと恐れていた。
数週間後、男は友人と酒を酌み交わしていた。酒の勢いで、ついそのことを口にしてしまった。「この前、変な祭りを見たんだ」と話すと、友人は笑って言った。「お前は酔ってるんじゃないか? そんなのは都市伝説だよ」と。
男はその言葉に一瞬安心したが、同時に心の奥にある恐怖が甦ってきた。あの祭りが都市伝説であるはずがない。彼は確かに見たのだ。その記憶は、彼の心に深く根付いている。
数日後、男は再びあの路地に足を運んだ。心のどこかで何かが呼んでいる気がした。だが、そこには何もなかった。祭りの痕跡すら見当たらない。ただ静寂が広がるばかりだった。彼は安堵し、そして同時に不安が胸を締め付けた。
「本当に見間違いだったのか?」男は自分に問いかけた。しかし、その問いが彼の心に余計な影を落とす。夜が明けると、彼は再びあの祭りを思い出し、心がざわつくのを感じた。何が真実で、何が幻想なのか。彼の中でその境界が曖昧になりつつあった。
そして、数日後の夜、男は再びあの不気味な音を耳にした。月明かりの下、路地の奥から呼びかけるような声が響いてくる。彼は再びあの祭りの場に引き寄せられるように歩き始めた。
その時、男は決定的なことに気づいた。あの祭りは彼を待っていたのだ。彼の心の奥に潜む恐怖を、祭りは引き寄せていた。彼にとって、逃げることはできない運命だったのだと。
男は、心の中で何かが崩れ落ちる音を聞いた。彼はもう逃げることはできない。祭りの音が響く中、彼はそれを受け入れ、暗闇の中へと足を踏み入れていった。