キツネに化かされる

 夜の街は静まり返っていた。薄暗い路地裏の街灯が、まるで虫のように小さく光り、周囲をぼんやりと照らしている。サラリーマンの彼は、疲れた足を引きずりながら帰路についた。スーツの肩は汗で濡れ、ネクタイは緩んでいる。仕事のストレスが心の奥に重くのしかかり、彼は早く家に帰りたい一心だった。

だが、彼がいつも通る道を進むにつれて、何かがおかしいと感じ始めた。いつものコンビニの前で、彼は立ち止まった。普段の賑わいはどこへやら、店の前に立っているのは一匹のキツネだった。月明かりに照らされたその姿は、まるで夢の中の生き物のように幻想的で、しかしどこか不気味でもあった。

「おい、君、どうしたんだ?」
彼はキツネに声をかけた。キツネは彼の方をじっと見つめ、何か言いたげにしっぽを振る。まるで話しかけているかのように、彼の心に何かが響いた。だがその瞬間、彼の背筋に冷たいものが走った。何か不吉な気配を感じたのだ。

「もう帰らなきゃ…」
彼は自分に言い聞かせた。しかし、キツネはその場から動かず、まるで彼を誘うかのように、目を細めてこちらを見ていた。好奇心が彼を引き止めた。心のどこかで、このキツネが何か特別な存在だと感じたのだ。

「おい、何があるんだ?」
彼はキツネの方へ近づいた。すると、キツネは一瞬、目を輝かせて、何かを指し示すように前足で地面を叩いた。彼はその方向に目を向けたが、何もない。ただの道端に過ぎなかった。

だが、彼の心に恐れが芽生え始める。キツネの目が、その瞬間、彼を捉えた。まるで彼の心の奥を覗き込まれているかのような感覚が広がった。胸が高鳴り、全身が緊張する。

「やっぱり帰る。」
彼は後退りをしようとしたが、その時キツネが動いた。その動きは美しく、まるで踊るようだった。彼は目を奪われ、思わずキツネの後を追ってしまった。キツネは彼を導くように、路地裏へと入っていく。

薄暗い路地は、まるで迷路のように絡み合い、彼は次第に方向感覚を失っていった。周囲が静まり返る中、キツネの姿がどこか遠くに見え隠れしている。彼は不安を覚えたが、同時にその不安がどこか心地よいとも感じていた。現実から逃げ出したいという欲望が、彼をキツネの後ろへと駆り立てたのだ。

「おい、どこに行くんだ?」
呼びかけても、当たり前だがキツネは無言のまま進み続けた。
路地の奥へと進むにつれて、周囲の景色が変わっていく。冷たい風が吹き抜け、彼は背筋が凍る思いをした。目の前に広がるのは、まるで異次元からやってきたかのような、不気味な光景だった。

巨大な木々が立ち並び、地面には黒い泥が広がっている。その泥は生き物のようにうねり、ぬめぬめとした感触で彼の靴を捕らえた。思わず立ち止まると、キツネは振り返り、彼を見つめる。その目には、まるで何かを試されているような冷たい光が宿っていた。

「戻りたい…」
彼は心の中で叫んだが、体は動かない。恐怖が彼を包み込み、キツネはその様子を楽しむかのように、更に奥へと進んでいく。彼は意志に反して、その後を追うしかなかった。

次第に、周囲の音が消え、静寂だけが支配するようになった。心臓の鼓動が大きく響き、彼の耳にはキツネの足音だけが聞こえていた。それはまるで、彼を見つめる目が何かを待っているかのようだった。

そして、ふと気がつくと、彼の目の前に一つの小屋が現れた。古びた木の扉がかすかに開いており、内部からは薄暗い光が漏れ出ていた。好奇心と恐怖が交錯する中、彼はその小屋に近づいた。

「この中に何があるんだ…?」
彼の心に疑問が渦巻いた。しかし、キツネは彼を促すように、扉の方へと導いた。無意識のうちに、彼は扉を押し開けた。

小屋の中は、異様な雰囲気に満ちていた。壁には古びた写真や、奇妙な道具が散乱している。床には黒い泥が広がり、まるで生き物のようにうごめいている。彼の心に恐怖が走ったが、同時に何かに引き寄せられる様な感覚もあった。

「ここは…何なんだ?」
彼は呟いた。すると、背後からキツネの声が聞こえたような気がした。「お前が求めていた場所だ。」

その瞬間、彼の目の前に巨大な鏡が現れた。鏡の中には、自分自身が映っている。しかし、映っているのは彼の姿だけではなかった。背後には無数のキツネたちが、彼を見つめていた。その目は冷たく、まるで彼を捕らえようとしているかの様だった。

「何だこれは!」
彼は恐怖に駆られ、後退りしようとしたが足が動かなかった。逃げようとしても、動けない。彼の心を支配する恐怖が、彼をその場に縛りつけていた。

「お前はここに来た。もう逃げられない。」
キツネの声が響いた。彼の心に強烈な恐怖が走り、彼は絶望に打ちひしがれた。どれだけ叫んでも、誰も助けに来ない。彼は一人、キツネたちに取り囲まれ、逃げ場を失っていた。

やがて、彼の意識は薄れていった。目の前の鏡が歪み、キツネたちが彼を飲み込んでいく。彼はただの一匹の獲物として、永遠にその場所に閉じ込められてしまった。彼の心の奥で、何かが崩れ去る音が聞こえた。

街灯が消え、静寂が広がる中、彼の姿はもうそこにはなかった。ただ、キツネだけが、月明かりの下で笑っているように見えた。彼の帰りを待つ人々は、もうその姿を二度と見かけることはなかった。

結局、彼が求めていたのは、恐怖ではなく、たった一つの安息だったのかもしれない。しかし、その安息は、彼が願ったものとはまったく異なる形で彼を捉えたのだった。


おススメ記事⇩

川の守護神



最新記事

妻のマグカップ

 ある晩、古びたアパートの一室で、僕は妻のマグカップを手に取っていた。茶色く、無数の細かいひびが蜘蛛の巣のように広がったそのカップは、妻が最期の時まで肌身離さず使っていたものだ。彼女が冷たくなった後も、僕はこのカップを捨てることなど到底できなかった。いつも彼女が淹れてくれた、焦げ...