ある晩、古びたアパートの一室で、僕は妻のマグカップを手に取っていた。茶色く、無数の細かいひびが蜘蛛の巣のように広がったそのカップは、妻が最期の時まで肌身離さず使っていたものだ。彼女が冷たくなった後も、僕はこのカップを捨てることなど到底できなかった。いつも彼女が淹れてくれた、焦げ付くような甘い紅茶の香りが、奥底に染み付いている気がしたからだ。
しかし、最近そのカップは、まるで生きた異物のように、悍ましい気配を纏うようになっていた。カップを洗い流すたび、流れ落ちるシャワーの音に紛れて、「コツ… コツ… コツ…」と、硬質な何かが骨を叩くような音が、耳の奥底で反響するのだ。最初は気のせいだと打ち消そうとしたが、その音は日に日に鮮明さを増し、まるでカップの内側から這い出てくるように、僕の意識を蝕んでいった。まるで、この歪んだ陶器の奥深くに、底なしの悪意が潜んでいるかのようだった。
その日も、震える手でカップに紅茶を注いだ。立ち昇る湯気は、いつもより禍々しい黒煙のように見え、鼻腔を刺す甘い香りは、腐敗臭を微かに孕んでいるようだった。その瞬間、脳裏に妻の歪んだ笑顔がよぎり、まるで彼女が背後から覗き込んでいるかのような錯覚に襲われた。僕は強張りながらカップを口に運ぶ。すると、遠くの闇から、「コツ… コツ… コツ…」という音が、鈍く響いてきた。まるで、地下深くから何かが這い上がってくるような、粘着質で不快な音だった。
「誰だ…?」と掠れた声で呟いたが、応えるのは耳鳴りのような静寂だけだった。ドアの向こうに広がる暗闇は、底なしの井戸のように、あらゆる希望を吸い込んでいく。不安が氷のように心臓を締め付けるが、震える手を伸ばし、再び紅茶を啜った。熱い液体が喉を焼くが、その奥で何かが蠢くような、生きた感触が這い上がってくる。何かが違う。それは、妻が淹れてくれた優しい紅茶では断じてない。そんな悍ましい予感が頭を鈍器のように打ち付けた瞬間、背後から、耳元で直接囁かれるような「コツ… コツ… コツ…」という音が聞こえた。
「やっぱり、何かいる…!」恐怖が濁流のように押し寄せ、僕はガタリと音を立てて立ち上がった。足は鉛のように重く、一歩踏み出すごとに激痛が走る。ドアに近づき、凍り付いた耳を押し当てた。確かに、粘りつくような足音が、すぐそこまで迫ってきている。「コツ… コツ… コツ…」と、まるで骨が擦れ合うような、乾いた音が、心臓の鼓動と重なり、増幅していく。
ドアを開けるという選択肢は、もはや僕の意識には存在しなかった。そこに待ち受けているであろう悪夢を想像するだけで、全身の毛が逆立つ。次の瞬間、ドアが内側から鈍くノックされた。ドン… ドン… ドン…。まるで、腐敗した拳骨で扉を打ち破ろうとするような、重く、ねっとりとした衝撃が響く。思わず「来るな!」と叫んだが、声は喉の奥で潰れた。
再び訪れた沈黙は、嵐の前の静けさのように、張り詰めていた。僕はその場に釘付けになり、背後の闇に顔を向けた。脳髄の奥底で、妻の悲鳴のような叫びが木霊する。「逃げろ…!逃げて…!」しかし、足は石像のように動かない。背後から、「コツ… コツ… コツ…」という音が、まるで心臓の鼓動のように、規則的に、そして確実に近づいてくる。何かが、この部屋の暗闇の中に、ゆっくりと、しかし確実に侵入してきたのだ。
恐る恐る振り返ると、薄暗いテーブルの上で、妻のマグカップがひとりでにカタカタと震えていた。まるで、見えない何者かがその表面を爪で引っ掻いているかのように。「コツ… コツ… コツ…」という音は、その振動に合わせて、より一層不気味な旋律を奏でる。思わず後退りした瞬間、マグカップがまるで意思を持ったかのように、勢いよくひっくり返り、ドロリとした黒い液体が床に広がった。それは、紅茶などではなかった。腐敗した血肉のような、おぞましい粘液が、床をグロテスクな模様で染め上げていく。目の前が、悪夢のような赤黒い色彩で塗りつぶされ、心臓は今にも破裂しそうだった。
その時、背後の闇から、耳元で直接囁かれるような声が聞こえた。「あなた… なぜ、私を置いていったの…?」その声は、確かに、聞き間違えるはずもない、愛しい妻のものだった。震える体で振り返ると、そこに彼女は立っていた。暗闇の中で、彼女は両手で大切そうに、あのひび割れたマグカップを抱きしめている。
「待ってくれ… 君は、もう… いないんだ…!」僕は悲鳴のような叫び声を上げた。理解不能な光景と、湧き上がる狂おしい恐怖が、僕の意識を寸断していく。「コツ… コツ… コツ…」という音は、まるで嘲笑するように、部屋中に反響する。彼女はゆっくりと、一歩、また一歩と近づいてくる。目が合うと、彼女の瞳は深く淀み、底なしの闇が広がっていた。まるで、生きた人間のものではない、何かに操られた空虚な空洞だった。
「私の… マグカップ… 返して……」彼女の声は、乾いた骨が擦れ合うように、掠れていた。音はさらに大きくなり、部屋の輪郭がぐにゃりと歪んでいく。「コツ… コツ… コツ…」と、彼女の引きずるような足音が、すぐそこまで迫ってくる。僕は恐怖で喉が張り付き、一歩も動くことができなかった。
その瞬間、彼女がゆっくりと手を伸ばしてきた。腐敗臭を纏った、氷のように冷たい指先が、僕の頬に触れた。全身の細胞が悲鳴を上げ、本能的な拒絶が湧き上がる。恐怖で呼吸すら忘れたまま、僕はただ、彼女の歪んだ顔を見つめることしかできない。彼女の唇は、かすかに微笑んでいるのに、その目は凍てつくように冷酷で、まるで獲物を嬲り殺す捕食者のようだった。
「ずっと… 一緒だよ……」その言葉が、耳の奥にねっとりと絡みつく。次の瞬間、彼女の姿は掻き消えるように消え失せ、部屋は再び、悍ましい静寂に包まれた。ただ、「コツ… コツ… コツ…」という音だけが、まるで心臓の鼓動のように、規則的に、そして執拗に響き続けていた。
僕は一人、黒い粘液が広がる床に膝をつき、立ち尽くしていた。背骨を這い上がるような、底知れない恐怖が、全身を氷漬けにし、あらゆる思考を奪い去っていく。あのひび割れたマグカップは、今も僕の手元にある。だが、もう二度と、それを手に取る勇気など、あるはずもなかった。
あの呪われた声が、今も耳の奥で、 絶えず反響し続けている。「ずっと… 一緒だよ……」その言葉は、決して忘れることのできない、永遠の呪詛のように、僕の魂を縛り付ける。まるで、妻の悪霊が今もこの部屋のどこかに潜み、僕の破滅を待ち構えているかのように、拭い去れない恐怖が、僕の存在そのものを支配している。そして、どこからともなく聞こえてくる、「コツ… コツ… コツ…」という音。それは、今も、確かに、何か悍ましいものが、すぐそこまで、僕に近づいてきていることを告げているのだ……。
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