トンネルの怪異

夕暮れ時。オレンジ色の光が街を包み、日が沈むにつれて影が長く伸びていく。そんな中、ひとりのサラリーマン、佐藤は帰路につくために車を走らせていた。普段は渋滞する大通りを使うが、今日は思い切ってトンネルの方へと向かうことにした。


トンネルは最近使われることも少ないか、佐藤には通り慣れた道ではあった。
周囲の風景が変わっていく中で、トンネルだけは昔のままだなと、佐藤は思った。古びたコンクリートの壁、ところどころに見える苔、そして薄暗い照明。まるで時が止まっているかのような空間だった。

「なんだか今日は変だな…」
佐藤は心の中で呟いた。普段は何も感じないはずのトンネルの中、彼の心の奥底に小さな不安が芽生え始めた。
運転しながら、彼はふと窓の外を見ると、何かが視界の隅を横切る。人影のように見えたが、すぐに消えてしまった。

「気のせいだ、気のせいだ」
と自分に言い聞かせるが、心臓はどくんどくんと早鐘のように鳴り始めた。トンネルの中は静寂に包まれ、エンジン音だけが響く。まるで誰かに見られているような感覚が彼を襲った。

その時、突然車のライトがふっと暗くなった。ハッとした佐藤は思わずハンドルを握りしめた。ライトが戻ると、彼の目の前には若い女性が立っていた。髪は長く、白いワンピースを着ている。顔はぼんやりとしていて、目がどこか虚ろだ。

「な、なんだ…?」
言葉が出ない。彼女は何も言わず、ただこちらを見つめている。佐藤は急ブレーキをかけた。車がタイヤを鳴らしながら止まる。心臓が口から飛び出しそうなほどの恐怖が彼を襲った。

「お願い、助けて…」
彼女の声は風の音のようにかすかだが、その言葉は彼の耳に鮮明に響いた。
何かが彼の中で弾ける。
助けるべきか、逃げるべきか。
彼は迷った末、再びアクセルを踏み込んだ。

次の瞬間、トンネルの壁に何かがぶつかる音がした。彼は振り返った。そこには何もない。全てが静まり返っている。冷や汗が佐藤の背中を流れ落ちた。

「違う、違うんだ…」
心の中で叫びながら、トンネルを抜けようと必死になった。だが、次々に異変が起こる。視界の端で、さっきの女性がまた現れる。今度はトンネルの反対側からこちらを見つめている。その表情は、ただ怯えた目にしか見えない。
車が外側からバンバン叩かれる。
走っている車のあらゆる場所がバンバンと。

「何が起こっているんだ?」
彼は混乱し、運転に集中できなくなった。突然、車の温度計が急激に上昇し、エンジンが悲鳴を上げる。焦りが彼の心を支配し、頭の中が真っ白になった。

「助けて…」
その声が再び耳に響く。彼の背筋は凍りついた。助手席に目をやると、そこには血まみれの子供が座っていた。彼女もまた、助けを求める目をしていた。瞬間、彼は急ブレーキをかけた。

「何が本当なんだ!?」
叫び声が耳に響く。彼は混乱し、何もかもが現実でないように思えた。トンネルの壁が迫る。彼はハンドルを切り、なんとか車を前に進ませた。

トンネルを抜けた時、彼は夜の闇に包まれた。車は無事だったが、心の中には重いものが残った。後ろを見ると、トンネルの入り口はまるで何事もなかったかのように静まり返っていた。しかし、彼にはその中で起こったことが決して忘れられない記憶として残る

「二度とこの道は通らない」と彼は心に誓った。だが、ふと振り返ると、トンネルの入り口の近くに女性が立っていた。女性がこちらを見つめている。彼女の目は、まるで助けを求めるように光っていた。恐怖と後悔が彼の心を締め付ける。

「何を伝えたいのか、分からない…」と、佐藤は呟いた。もしかしたら、彼女はただ孤独で、助けを求めていたのかもしれない。しかし、彼はその恐怖から逃げることを選んだ。彼の選択が正しかったのかどうかは、もう誰にも分からない。








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