深夜の一件

 深夜、街の灯りが次第に薄れていく頃、老朽化したタクシーは、港へと続く道を走っていた。運転席に座る老年の運転手、松田は、ラジオの音量を少しだけ上げ、静まり返った車内に響くニュースの音を頼りにハンドルを握っていた。


「本日の未明、港湾地区にて、不可解な失踪事件が発生。行方不明者は、この港で働く作業員数名。警察は、原因を現在調査中とのことです。」


ラジオから流れるニュースに、松田は思わず身震いした。港湾地区といえば、彼がよく仕事で訪れる場所だ。最近は、不審な噂が絶え間なく耳に入っていた。


「最近、港で奇妙な影を見かけるって噂があるんだよな…」


そんなことを考えながら、松田は港の入り口に到着した。客待ちをしていると、遠くに人影が見えた。近づいてみると、それは若い女性だった。


「あの、街まで送ってください。」


女性の表情はどこか青白く、不安げに見えた。松田は何も言わずに頷き、女性を乗せた。


「あの…、この港って、何か噂があるって聞いたんですけど…」


女性は、恐る恐る尋ねてきた。


「ああ、そうですね。最近、変な噂が多いらしいね。でも、気にしない方がいい。気のせいかもしれない。」


松田はそう言って、女性を安心させようとした。しかし、彼の心には、どこか落ち着かないものが残っていた。


車は、港から離れる様に進んでいく。街灯も少なく、あたりは真っ暗だ。女性は、窓の外をじっと見つめ、一言も発しない。


「あの…」


突然、女性が声をかけた。


「何か、後ろにいるみたいなんですけど…」


振り返ると、後部座席には誰もいなかった。しかし、女性は、まるで何かが見えるかのように、震えながら話した。


「後ろに…、黒い影が…」


松田は、背筋が凍りつくのを感じた。彼は、急ブレーキをかけ、車を停めた。


「落ち着け!気のせいだ!」


松田は、そう言い聞かせようとしたが、彼の心はすでに恐怖に支配されていた。


その時、車の窓ガラスが、内側から叩かれた。


「うわああああ!」


女性は、悲鳴を上げて、車のドアを開けて飛び出した。松田は、何が起きたのかわからず、ただ呆然と座っていた。


しばらくして、我に返った松田は、車から降りて周囲を見渡した。しかし、女性の姿はどこにもなかった。


その夜、松田は、港で起きた不可解な失踪事件のことを思い出した。そして、自分が体験したことを、誰かに話そうと思った。


しかし、誰も彼の話を信じるはずがない。彼は、ただ一人で、その夜の出来事を心に刻み続けることになった。


後日談


翌朝、港湾地区で、松田が乗せた女性のものと思われる遺体が発見された。遺体には、何の傷もなく、ただ顔色が青白くなっていたという。警察は、事件の捜査を進めているが、いまだに謎は解けていない。


そして、港では、今もなお、奇妙な噂が囁かれている。


「深夜の港には、黒い影が現れる…」


「その影に近づいた者は、二度と戻ってこない…」

最新記事

妻のマグカップ

 ある晩、古びたアパートの一室で、僕は妻のマグカップを手に取っていた。茶色く、無数の細かいひびが蜘蛛の巣のように広がったそのカップは、妻が最期の時まで肌身離さず使っていたものだ。彼女が冷たくなった後も、僕はこのカップを捨てることなど到底できなかった。いつも彼女が淹れてくれた、焦げ...