レストラン「ノクターン」

 夜の街は静まり返り、月明かりが薄暗い路地を照らしている。そんな街の外れにひっそりと佇むレストラン「ノクターン」。その名の通り、深夜まで営業しているため、時折、ふらりと立ち寄る客がいる。


店内は薄暗く、木製のテーブルや椅子が並び、壁には古い写真が飾られている。かつての街の賑わいを映し出しているかのようだが、今は客足もまばら。厨房からは時折、鍋の音が響く。ひとりで働く店主の田中は、そんな静寂の中で、時に不気味さを感じていた。


「またあの客が来るんだろうな」と田中は思う。彼が言う「あの客」とは、深夜に現れる常連客のことだ。いつも同じ席に座り、いつも同じメニューを注文する。彼の存在は、どこか異様で、田中の心に不安を募らせていた。


その客は、黒いコートを羽織り、目元を隠す帽子をかぶっている。顔は見えないが、その存在感は圧倒的だった。彼が入ってくると、店内の空気が冷たくなるような気がする。常連の彼は、何度もこの店に来ているが、田中は彼と話したことがない。いつも無言で、食事を終えると、さっさと去っていく。


「彼は一体何者なんだろう」と田中は考える。常連客の中には、何か特別な思いを抱えている人もいるかもしれない。しかし、あの客はまるで、何かを隠しているかのようだ。彼の視線が、まるで過去を見つめるように感じるのだ。


ある夜、田中はその客の姿を見逃さないように、じっと観察していた。彼が座る席の向かい側には、古い鏡がかかっている。鏡に映る客の姿を見て、田中の心臓は一瞬止まった。客の背後には、薄い人影が立っている。まるで、彼を見守るかのように。


「あれは…誰だ?」田中は恐怖を感じた。その人影は、まるで霧のようにぼんやりしており、客の後ろで揺らめいている。田中は思わず声を上げそうになったが、口をつぐんだ。もし声を発したら、客は振り向くかもしれない。それが恐ろしいことだと直感した。


客が食事を終えると、田中は思い切って声をかけることにした。「お待たせしました。お会計は…。」言葉を続けようとするが、客はゆっくりと顔を上げた。その瞬間、田中は背筋に冷たいものを感じた。客の目は虚ろで、まるで生気を失った人形のようだ。


「…頼む。」客の声は、まるで遠い過去からの囁きのようだった。田中は思わず後ずさりした。彼の目の前には、血のように赤いスープが盛られた皿が置かれている。そのスープが、何かを訴えかけているように感じた。


「これは…」田中が言いかけたその時、客の後ろに立っていた人影が、彼の耳元で囁いた。「彼は、私たちの一部だ。」


田中は心臓が凍りつく思いだった。人影は、かつてこのレストランに来た客の霊だった。彼は、あの客が自分たちの仲間だと告げているのだ。田中はその意味を理解することができなかった。客の背後には、他にも何人かの影が見える。全員が、彼を見守っているのだ。


「私は、ここに居続ける。」客は静かに告げた。「君も、私たちの仲間になるだろう。」


その瞬間、田中は我を忘れて逃げ出した。レストランの扉を開けると、冷たい風が吹き抜けた。外に出ると、街は静まり返っていた。だが、振り返ると、レストランの窓からは、あの客の姿が見えた。虚ろな目をした彼は、田中に向かって微笑んでいるようだった。


逃げる足は止まらない。田中は必死に走り続けた。彼の心には、あの客とその後ろに立つ霊たちの姿が焼き付いていた。何度も振り返りたい衝動に駆られたが、恐怖がそれを許さなかった。


「何者なんだ、あの客は…。」田中は心の中で問い続けた。街の外れにあるそのレストランは、ただの深夜営業の店ではなかった。過去の客の霊が、今もなお、現れる場所だったのだ。


月明かりが薄れ、闇が深まる中、田中は自らの運命を悟った。あのレストランは、ただの食事の場ではなく、彼らの集う場所。いつか、また戻ってくる運命を背負った場所だ。


果たして、田中はその後、再び「ノクターン」の扉を開けることができるのだろうか。彼の心に残る問いは、深夜の静けさに消えていく。しかし、あの客の微笑みは、永遠に心の奥底に刻まれることになるだろう。



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