夕暮れの海は、まるで燃えるようなオレンジ色に染まり、波間には赤い光が反射していた。大学生のA氏は、フェリーのデッキに立ち、心の中に重くのしかかる悲しみを抱えながら、故郷の小さな島を遠くに眺めていた。祖父の葬儀のために帰省したこの島は、彼にとって特別な場所だった。しかし、今はその特別さが胸を締め付けるように感じられた。
「もう二度と会えないんだな…」
A氏は、心の中で祖父の顔を思い出す。昔、祖父と一緒に貝殻を拾った海岸や、夏祭りで一緒に花火を見た夜。記憶は美しいが、同時に切なくもあった。
そんなとき、彼の目に飛び込んできたのは、波間に浮かぶ巨大な影だった。最初は、ただの影だと思ったが、その影はどんどん大きく、そして形がはっきりしてきた。目を凝らすと、それはウミガメだった。普通のウミガメとは比べ物にならないほどの大きさで、フェリーよりも遥かに大きかった。
「なんだ、あれ…?」
A氏は驚きの声を漏らした。周りには他の乗客がいるが、誰もその影に気づいていないようだった。彼は興味を持ち、ウミガメをじっと観察することにした。波に浮かび、時折沈むその姿は、まるで海の精霊のように神秘的だった。
しかし、目を凝らして見つめるにつれ、彼の心には不安が広がっていく。何かが変だ。ウミガメの甲羅に目を凝らすと、その模様が、苦し気な表情の人の顔に見えるのだ。厚い甲羅の隙間から覗くその顔は、恐怖に満ち、助けを求めるように彼を見つめていた。まるで、海底に沈んだ無数の人々の苦痛の表情が凝縮されているかのようだった。
「これは…夢か?」
A氏は自分の目を疑った。しかし、夢であるなら、どうしてこんなにもリアルなのだろう。彼は心臓が鼓動する音を感じながら、ウミガメを見続けた。波の動きによって、ウミガメは浮いたり沈んだりし、そのたびに甲羅の模様が変わる。苦痛の顔は、まるで彼に何かを伝えようとしているかのようだった。
「おい、何してるんだ?」
突然、後ろから声がかかった。振り向くと、同じく帰省中の友人が立っていた。彼の表情は驚きと興味に満ちていた。
「ほら、あのウミガメ…」
A氏は指を指したが、友人の目にはウミガメは映らなかった。彼は空を見上げ、何かを考えるように首をかしげた。
「何にもいないよ。お前、疲れてるんじゃない?」
友人は笑って言ったが、その笑い声はA氏の心に冷たい波を立てた。彼は再びウミガメに目を戻すが、そこにはもう影はなかった。ただ、静かな波と夕日が沈む光景だけが広がっていた。
「いなくなった…」
A氏の心に不安が広がる。たった一瞬の出来事だったが、その影はまるで彼の心の奥底に深い傷を残したかのようだった。彼は再び夕日を見つめた。沈みゆく太陽の光が、海面に乱反射し、まるで彼の心のように揺らいでいた。
「俺は何を見たんだろう…」
A氏は自問自答した。その答えは見つからないまま、フェリーは静かに島へと向かっていた。周囲の人々は楽しそうに談笑し、彼だけが孤独な思いに包まれていた。
夕日が完全に沈むと、周囲は薄暗くなり、星がちらほらと顔を出した。A氏はその星々を見上げながら、自分の中にある不安や悲しみを少しずつ受け入れていけそうな気がした。