海から来た恐怖の正体

 ある夏の終わり、海辺の小さな町に住む啓介は、友人たちと一緒に海水浴に出かけた。太陽が高く昇り、海は青くきらめいていた。波の音が「ザッパーン」と耳に心地よく、彼らは楽しそうに笑い合っていた。だが、そんな楽しい時間の中で、啓介の心には少しの不安が忍び寄っていた。


浜辺の近くでは、数人の地元の住民が集まって、低い声で何かを話しているのが見えた。啓介は好奇心に駆られ、友人たちを引き連れてその場に近づいた。すると、年配の男性が言った。

「最近、海の中で変なものが見えるって噂が広がってるんだ。夜になると、あの岸から何かが出てくるって…。」


友人たちは笑いながら「そんなの信じられないよ」と言っていたが、啓介は心の奥で「本当に何かいるのかもしれない」と感じていた。彼はその言葉の裏に潜む不安を感じ取り、自分が求めていた楽しさと恐怖の狭間で揺れ動いていた。


その晩、啓介は一人で浜辺に戻った。夜の海は静寂に包まれ、波の音は「ザザーン」と優しく響いていた。月明かりが海面を照らし、まるで幻想的な絵画のようだった。しかし、その美しい光景の裏には、何か不気味なものが潜んでいる気がしてならなかった。


啓介は海を見つめながら、心の中に不安が広がっていくのを感じた。波が寄せるたびに、まるで彼を呼び寄せるような気がして、ぞくりとした寒気が背筋を走った。彼は思わず足元に目をやり、細かい砂が指の間からすり抜ける感触を感じた。まるで、海が彼に何かを求めているようだった。


その時、啓介の目の前に波が立ち、何かが水面から浮かび上がった。彼は息をのんで、それを見つめた。暗い海の中から、ゆらゆらとした影が現れたのだ。それは、まるで人の形をしているかのように見えた。彼の心臓は激しく鼓動し、恐怖が彼を包み込んだ。


「本当に何かいるのかもしれない」と、彼は思った。思考が混乱し、彼は後ずさりしようとしたが、足が砂に埋まって動けなかった。影は徐々に近づいてくる。思わず目を閉じた瞬間、啓介の脳裏に友人たちの笑い声が蘇った。「信じられないよ」と彼らが言っていたことが、今も耳に残っている。


影が近づくにつれ、啓介は恐怖と興味が交錯する感情に襲われた。心の中で「逃げるべきか、見届けるべきか」と葛藤していた。だが、その時、影から聞こえてきたのは、何かの声だった。


「助けて…」


その声に、彼の心は一瞬で引き寄せられた。恐怖よりも好奇心が勝り、彼は目を開けてしまった。影の正体が徐々に明らかになっていく。水に濡れた髪、青白い肌、そして何かを訴えるような目。彼女は確かに人間だった。


「助けて…」彼女は繰り返した。啓介はその声の響きに、胸が締め付けられる思いを抱いた。彼はその美しい顔を見つめながら、何かを感じ取った。それは、彼女が海の底から這い上がってきた理由でもあり、彼女が求めているものでもあった。


「どうしたんだ?」と、啓介は声をかけようとしたが、言葉が喉につかえてしまった。彼女はゆっくりと彼に近づき、手を伸ばしてきた。啓介は恐れを抱きながらも、その手を取ることを拒むことができなかった。


「私を助けて…」彼女の目は切実で、啓介の心に訴えかけてきた。彼はその瞬間、海の恐怖の正体を理解した。彼女は海に囚われた存在で、助けを求める幽霊だったのだ。


啓介の心は複雑な感情で揺れ動いた。恐怖と共感、好奇心と不安。彼女の存在は、彼にとっての新たな現実を突きつけていた。「どうして、こんなところに?」と、言葉にすることもできずに彼は思った。


「私を…助けて…」


彼女は再び強い声で訴えた。その時、啓介は決心した。彼女を助けるために何ができるのか、考え始めた。彼は海に飛び込む勇気を持つことができるのだろうか?彼女のために命を懸ける覚悟はあるのか?


その時、波が大きく揺らぎ、彼女の姿が再び水面に消えた。啓介は慌てて手を伸ばしたが、何も掴むことができなかった。彼の心に不安の影が広がり始めた。「助けを求める彼女の姿は、本当に幻だったのか…?」


啓介は浜辺に立ち尽くし、海を見つめた。波は静かに打ち寄せ、月明かりの中で煌めいている。彼の心には、あの幽霊の声がこだましていた。「助けて…」その声は、彼の心の奥底に潜む何かを揺さぶった。


その日以来、啓介は海に近づくことを避けるようになった。友人たちと海水浴を楽しむこともなくなり、町の噂も耳に入らなくなった。しかし、その心の奥には、彼女の声がいつまでも響き続けていた。


「助けて…」その言葉は、啓介の心を蝕み、彼の生活を変えた。彼は海の恐怖を忘れることができず、日常の中でその声が常に彼を追いかけてくるのを感じていた。


数ヶ月後、啓介は町を離れ、新たな生活を始めることを決意した。海から逃げることができると思ったのだ。しかし、彼の心の中には、あの幽霊の影が残り続け、彼は決してその声から逃げることはできなかった。


そして、ある晩、夢の中で再び彼女が現れた。彼女は海の底から啓介を見つめ、「助けて…」と繰り返していた。啓介は目を覚まし、涙を流しながら思った。「彼女を救えなかった自分を、どうしても許せない…」


彼女の声は、啓介の心に重くのしかかり、彼は彼女を忘れることができなかった。彼の心の中で、彼女は永遠に海の深淵に住み続ける存在となったのだ。そして、その恐怖は、彼の心の中で静かに息づいていた。



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