潮騒の記憶

 夏の陽光が燦々と照りつける海辺の町。透き通るような青空の下、俺は久しぶりに故郷、B島に戻ってきた。潮の香りが鼻をかすめ、波の音が心に響く。海岸沿いの遊歩道には、家族連れやカップルが楽しそうに歩いている。まるで時間が止まったかのような、あの頃の夏と何も変わらない景色。しかし、心のどこかで違和感を感じていた。


目的は、幼馴染の美咲の墓参りだった。彼女は、俺にとって特別な存在だった。明るく、優しく、誰とでも分け隔てなく接する彼女は、町の太陽のような存在だった。しかし、高校三年生の夏、彼女は突然、この世を去った。まさか、あの時の出来事がこんなにも深い傷を残すとは思わなかった。


墓地は海岸から少し離れた小高い丘の上にあった。石の階段を上るごとに、子供の頃の思い出がよみがえってくる。美咲と一緒に駆け回った海岸、二人で貝殻を集めては、無邪気に笑い合った日々。あの夏、彼女が水に飲まれていく様子は、未だに夢に出てくる。水の中で彼女が助けを求める声は、耳元でこだまし、思い出すたびに胸が締め付けられる。


墓前に立つと、手を合わせ、彼女に語りかけた。

「美咲、久しぶり。戻ってきたよ。元気にしてるかな?」

自分の声が消えてしまうほど、周囲は静まり返っていた。もう何年も経ったというのに、彼女の存在が心の中で生き続けている。風が吹き抜け、冷たい潮の香りが漂う。思わず目を閉じると、耳元に潮騒が聞こえ始めた。


「拓也、助けて…」


その声に驚き、目を開けると、目の前に美咲が立っていた。白いドレスが水に濡れ、透けて見える。彼女の顔は穏やかで、そこには悲しみはなかった。まるで、あの時のままの美咲だった。心臓が高鳴り、言葉が出ない。信じられない光景に、現実なのか夢なのか分からなくなっていた。


「どうして…?」


「私、ずっとここにいるよ。拓也が来るのを待ってた。」


彼女の声は、波の音に溶け込んでいくようだった。俺は立ち尽くし、ただ彼女を見つめることしかできなかった。涙がこぼれそうになるが、それをこらえて彼女の存在を受け入れようとした。これが夢なら、目を覚ましたくなかった。だが、現実は冷たく、彼女がどれだけ美しい姿を見せても、そこにいるのはもう亡霊に過ぎないのだと理解していた。


「美咲、どうして俺を呼んだの?」


彼女は微笑み、指を差した。そこには、海を見渡す崖のような場所があった。波が打ち寄せる音が、まるで何かを伝えようとしているかのように響く。胸がざわつき、何かを感じ取ろうと必死になった。美咲の指先が示す先には、薄暗い海の底があるようだった。


「私を忘れないで。海には、私の思い出がたくさんあるから。」


その言葉を聞いた瞬間、何かが胸を押しつぶすような感覚に襲われた。美咲が言いたいことはわかる。でも、俺は彼女を忘れることなどできない。彼女と過ごしたあの夏の日々は、今も心に鮮明に残っている。だけど、彼女を思い出すたびに、あの水難事故の悲しみが甦る。


「美咲、もう悲しませたくないんだ…」


彼女の顔が一瞬、切なさに包まれた。波の音が一層強くなり、耳が痛くなる。心の奥底から、彼女を忘れたくない気持ちと、悲しみを抱え続けることの辛さが交錯する。美咲は少し微笑み、優しく言った。


「大丈夫。私はここにいる。拓也も、私の思い出を大切にしてくれれば、それでいい。」


その瞬間、波が押し寄せ、彼女の姿が霞んでいく。まるで海に溶け込んでいくように、彼女は消えていった。俺はその場に立ち尽くし、声を上げて泣いた。何度も何度も呼んだ。「美咲!」と。


潮の香りが強く、波の音が耳に残る。彼女の声はもう聞こえない。だが、心の中には確かに彼女の存在が生きていた。美咲の思い出は、これからも俺の中で大切にされ続けるだろう。彼女を忘れないために、俺はこの町に戻ってきたのだ。


海辺を歩く人々の中に、かつての美咲の面影を見つけながら、俺は自分に言い聞かせた。「これからも、美咲のことを思い出し続けよう。」そして、いつか彼女のように、誰かを照らす存在になりたいと願った。


それが、俺にとっての美咲との約束だった。






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