【 鏡の向こう側 】

 引っ越したばかりの家は、古びた屋敷のような佇まいだった。壁はところどころ剥がれ、窓は少し曇っていて、まるでこの家が何かを隠しているかのように感じられた。その一角に、彼は目を奪われた。古い鏡だ。鏡の枠は、所々が剥がれかけ、黒ずんでいるが、どこか神秘的な雰囲気を醸し出していた。彼はこの鏡をどこかに置こうと思い、部屋の隅に移動させた。


日常生活が始まって数日後、彼は何気なく鏡を覗いた。そこに映るのは、自分の顔だった。しかし、何かが違った。映る自分の後ろに、もう一つの影がちらりと見えた。薄暗い部分に潜むように、確かに存在している。その影は、自分の姿を模しているが、色が濃く、まるで自分を反転させたような存在感を放っていた。彼は一瞬、目を疑ったが、すぐに自分の目の錯覚だと思い込んだ。


しかし、その影は徐々に彼の日常生活に影響を及ぼすようになった。何気ない瞬間、たとえば友人とカフェで話しているとき、影がちらりと映り込むことがあった。彼はその影に気を取られ、いつの間にか友人の話を聞き逃してしまうことが増えた。心のどこかで、それを気にしながらも、彼は無視し続けた。


ある晩、彼はベッドに横たわり、ふと目を開けた。暗闇の中、彼の視線は鏡に吸い寄せられた。すると、そこには影がじっとこちらを見つめ返していた。その瞬間、彼の心臓がドキリと大きく跳ねた。影の目は、まるで彼の内面を見透かしているかのように、冷たい視線を送っていた。恐怖が彼を襲ったが、それと同時に、何か惹きつけられるものも感じた。


日が経つにつれて、影はますます強く彼に影響を及ぼすようになった。不安を抱えながらも、仕事に出かけ、友人と過ごし、普通の生活を続けていた。しかし、影は彼の思考に侵入してきた。ささいなことでイライラし、少ししたことで怒りが爆発する。周囲の人々の言動が気に入らなくなり、次第に自分の中の暗い欲望が顔を出すようになっていった。


ある日のこと、彼は友人の結婚式に出席した。幸せそうな二人を見つめるうちに、彼の心の中で何かが壊れた。影が彼の心をのっとり、彼の最も暗い欲望を具現化していた。彼は不安定な感情を抱えながら、ひどく冷たい笑みを浮かべた。周囲が祝福の声を上げる中、彼は自分の心の中で渦巻く欲望に引きずられるように、結婚式の場から立ち去った。


帰宅後、鏡の前に立った彼の目の前に、影はゆっくりと近づいてきた。彼は恐怖と興奮が交錯する感情に襲われながら、鏡をじっと見つめた。影は彼の意志を超えて、まるで彼の代わりに現実に出てこようとしているかのようだった。彼は恐れおののきながらも、その影に引き寄せられ、自分の内面に潜む暴力的な欲望に飲み込まれていった。


そして、ある夜、彼はついにその影と向き合った。鏡の中の影は、彼に向かって手を伸ばしてきた。恐るべきことに、彼の意志を無視して、影は自分の姿を持ち、徐々に現実の世界に現れてくる。彼は絶望的な感情に苛まれながらも、影の存在を否定できなかった。


彼は必死に逃げようとしたが、影は彼の心の中のすべてを知っているかのように、どこにいても追ってくる。彼の内面と外面がひとつになり、暴力的な感情が彼を支配していた。彼は自らの思考を操られ、最終的には影に代わって、彼自身の姿を消してしまった。


数日後、家の中は静まり返っていた。誰もいない部屋には、古い鏡がひっそりと佇んでいるだけだった。その鏡の中には、まだ影が潜んでいた。彼の姿はもうそこにはないが、影は彼の欲望を持ったまま、次のターゲットを探し続けているのだった。


この家に引っ越してきたことで、彼は何を失ったのか。鏡の向こう側には、彼が望んでいたものが本当にあったのか。誰もが影に飲み込まれないよう、注意を払わなければならない。人の心の中に潜む暗い欲望は、時に形を持ち、現実の世界に影響を与えることがあるのだ。


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