嗤う水面

1. 湖畔の異変


その湖は、深い緑に囲まれ、静寂に包まれていた。中央に浮かぶ小さな島には、古い祠が佇んでいる。地元では「水神様」と呼ばれ、古くから人々に畏れられてきた。


俺は、夏休みに亡き祖父の故郷であるこの村を訪れた。祖父は生前、この湖について多くを語らなかったが、幼い頃からその存在が気になっていた。


故郷と言っても、もう親類は居ないので、湖畔の民宿に宿を取って泊まり、翌朝、俺は湖を訪れた。朝日に照らされた湖面は、穏やかで美しかった。しかし、どこか不気味な静けさが漂っていいるのを感じたが、9月後半の爽やかな朝の風が、不安を一掃してくれた。


祠のある島へは、小さな渡し船で行くことができる。あらかじめ予約しておいた船の、船頭のおじいさんに話を聞くと、昔はもっと多くの人が水神様を信仰していたが、今はほとんどいなくなってしまったという。


「若い者は、神様を信じなくなってしまったんじゃ」


おじいさんは、寂しそうに笑った。

それからしばらく船頭のおじいさんと他愛もない話をし、程なくして祠のある島に辿り着いた。

この島は小さく、誰も住んでいない。島の中腹辺りに古ぼけた鳥居とその少し奥に件の祠があるだけだった。

船頭のおじいさんと正午前には迎えに来てもらう約束をして、俺は祠を目指し上陸した。


鳥居をくぐり、程なくして祠に到着する。古く所々痛んではいるが、誰かが定期的に手入れしている様子が伺えた。

俺は静かに祠に手を合わせる。


「水神様、この村をお守りください」


そう呟くと、湖面がざわめいた。

風もないのに、湖面に波紋が広がっていく。


「…気のせいか?」


そう思い、俺は祠を後にした。


その日の午後、民宿の主人が慌てた様子で俺を呼び止めた。


「大変じゃ! 湖で人が溺れたらしい!」


急いで湖畔へ向かうと、消防や警察、村人たちでごった返していた。

溺れたのは、昨日、村に引っ越してきたという若い女性だそうだ。


「昨日、あの子、水神様の祠に行ってたよ」


近所の老婆が、不安そうに呟いた。



2. 繰り返される惨劇


2日後、また人が溺れた。

今度は、村の子供だった。

やはり、その子も祠に行っていたという。

村人たちは、水神様の祟りだと噂し始めた。


「水神様を怒らせたんだ」


「若い者が、神様を馬鹿にするからだ」


俺は、村人たちの言葉に違和感を覚えた。

本当に、水神様の祟りなのだろうか?

その時、ふと、湖面を見ると、何かが光っているのが見えた。

目を凝らしてみると、それは、人の顔のようにも見える。


「…まさか」


俺は、急いで湖に飛び込み、光る場所へと向かった。

近づいてみると、それは、水面に浮かぶ女性の顔だった。

顔は、苦しそうに歪んでいた。


「大丈夫ですか!?」


俺は必至で女性に手を伸ばし引き上げようとした。しかし手を伸ばした先には水の感触以外に何もなかった。沈んでしまったのかとも思ったが、少し先の湖面にその女性は立っていた。そのまま水面を滑るように祠のある島へと消えていった。

俺は、恐怖に駆られ溺れかけたが、異変に気付いた村人たちに岸へと連れ戻されていた。


…今のはいったい何だったのか…?


その夜、民宿で眠っていると、俺は夢を見た。


昼間の女性が、湖の中から手を伸ばして、俺を掴もうとする夢だった。


「助けて…!」


俺は、悲鳴を上げて飛び起きた。

心臓が、激しく脈打っていた。

夢の内容が、あまりにもリアルだった。

もしかしたら、あの女性は水神様なのかもしれない。

そう考えると、背筋が寒くなった。





3. 水底の真実


次の日、俺は、再び湖を訪れた。

今度は、ボートではなく、潜水具を借りて、湖底を調べることにした。

こんなところでダイビングの経験が生かされるとは、と皮肉に思いながら。

9月とは言え、湖底は想像以上に暗く、冷たかった。

水草が不気味に揺らめき、魚の群れがゆっくりと泳いでいく。


しばらく泳いでいると、岩の隙間に、何かが見えた。

近づいてみると、それは、古い祠だった。だいぶ湖底で放置されていたのだろう、藻や何か分からない物が所々こびりついている。

朽ちかけて半開きの扉をそっと開くと中には、小さな像が祀られていた。像は、美しい女性の姿をしている。


「…これは…?」


それは、昨日の女性にそっくりだった。

しかし、どこか人間離れした美しさを持っていた。

島にある祠にはこんな像は無かった。いったいこれはどういう事だろう?

陸に上がったら村の資料をもっと調べてみようと俺は決意した。


「島にある祠とは関係あるのだろうか?」


今の段階では明確な答えはない。

その時、背後に不穏な気配を感じた。

振り返ると、そこにいたのは、昨日の女性だった。

俺は混乱した。その女性は何も潜水具を付けずに、悠々とこちらに滑るように迫ってくる。

その笑顔は、優しく、そして恐ろしかった。


呆然としている俺に近づくと、思いの外強い力で俺の手を取った。

女性の手は、氷のように冷たかった。まるで直に氷を付けられているかのような感触だ。

俺は抵抗することができなかった。

女性に連れられ、俺は、更に湖底へと沈んでいった。

水圧で、耳が痛かった。しかし、それよりも、女性の笑顔が恐ろしかった。

彼女は水神様なのだ。

そして、俺もまた、彼女の一部になるのだろう。

永遠に、この湖の底で。



4. 嗤う水面


湖面は、穏やかだった。

しかし、その下には、恐ろしい秘密が隠されていた。水神様の正体は、大昔に人柱となった少女だった。

彼女は、湖に住む人々を守るために、水神様になった。

しかし、その代償は、あまりにも大きかった。

彼女は、人間ではなくなってしまった。

そして、人を、水底へと誘う存在となった。


今日もまた、誰かが、湖に近づくだろう。

そして、彼女の笑顔に魅せられ、深海へと消えていくのだろう。


嗤う水面


それは、永遠に繰り返される、悲しい物語。 





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