記憶

 薄暗い病室の中、白いシーツに包まれた少女が静かに目を覚ました。彼女の名前も、過去も、何も思い出せない。ただ、心の奥にぽっかりと空いた穴があるような気持ちだけがあった。


「おはよう、君は大丈夫だよ」


その声は、彼女の頭の中に響いた。優しさと温もりを感じるその声は、彼女にとって唯一の支えだった。少女の目の前には、彼女を見守る一人の青年、翔(しょう)が立っていた。彼の表情は、心配と愛情が交錯しているようだった。


「翔……」


彼女は、彼の名前だけが何故か頭に浮かんだ。しかし、それ以上のことは何も思い出せなかった。翔は彼女の手を優しく握りしめ、微笑んだ。


「少しずつでいい。君の記憶はきっと戻るから」


翔の言葉は、彼女に安心感を与えた。しかし、その一方で、彼女は自分の過去を知ることが怖い気もした。何があったのか、誰といたのか。自分を忘れてしまった世界に戻ることが、本当に幸せなのだろうか。


その日から、翔は彼女の日常に寄り添い続けた。病室の窓から差し込む淡い光の中で、二人は小さな会話を交わし、笑い合った。翔が持ってきてくれる本を読み、彼が教えてくれる外の世界の話に耳を傾けた。


「君の好きな食べ物は何だろう?」


「うーん、わからない。でも、甘いものが好きかもしれない」


「じゃあ、今度一緒にケーキを食べよう」


そう言いながら、翔は彼女の顔を見つめ、その目に映る彼女の笑顔を心に焼き付けた。彼にとって、彼女の笑顔は何よりも大切なものだったのだ。


しかし、日々が過ぎるにつれて、彼女の記憶が戻る気配はなかった。翔は焦りを感じ始める。彼女の記憶が戻ることに、彼はどこか恐れを抱いていた様だった。


ある日、彼女はふとした瞬間に、病室の隅にある古びた鏡を見つめていた。そこに映る自分の姿が、どこか違和感を覚えさせた。まるで、自分が自分でないかのような気がしたのだ。翔がその様子に気づき、彼女のそばに寄ってくる。


「何か気になることがあるの?」


彼女は鏡を見つめたまま、言葉を選んだ。


「私、何か大切なことを忘れている気がする」


翔はその言葉を聞いて、胸が締め付けられる思いだった。彼女の記憶が戻ったとき、彼女がどんな反応を示すのか、想像するだけで恐ろしくなった。


次の日、彼女は病院の庭に出た。青空の下、周囲の風景が彼女の心を少しずつ開放していった。陽の光が草花を照らし、風が心地よく頬を撫でる。そこで彼女は、一瞬の閃きを得た。記憶の断片が、夢の中で見たような映像として浮かび上がってきた。


「翔、私の名前は……」


彼女の言葉が止まった。翔は驚き、彼女に近づいた。


「思い出したの?」


「もしかしたら、私の名前は……ああ、でも、何かが……」


彼女は頭を抱え、混乱した様子を見せた。翔は彼女の手を掴み、優しく言った。


「焦らなくていい。全部、君のペースで思い出していこう」


「でも、私は何を思い出さなければならないのか、わからないの……」


彼女の目に涙が浮かんだ。翔はその涙を拭うように、自分の指で彼女の頬に触れた。


「大丈夫、どんなことでも一緒に乗り越えよう」


しかし、彼女の心の中には、今まで感じたことのない恐れが渦巻いていた。彼女の過去には、翔が知らない暗い影が潜んでいるのではないかという疑念が、彼女を襲ったのだ。


月日が流れ、ついに彼女の記憶が戻る日がやってきた。病室で、一枚の写真を見つけたとき、彼女の脳裏に強烈な映像がよみがえった。


それは、彼女の家族が映る写真だった。その中には、彼女が愛した小さな弟の姿があった。しかし、その瞬間、彼女の心に激しい痛みが走った。彼女は弟を失った事故を思い出したのだ。


「翔、私……」


彼女は涙を流しながら、翔の腕の中で震えた。翔は驚き、混乱の中で彼女を抱きしめた。


「大丈夫だよ、君は一人じゃない」


しかし、彼女の心の奥には、失ったものへの喪失感と、翔に対する罪悪感が渦巻いていた。


「私は、自分を忘れたかったのかもしれない……」


翔は彼女の言葉に胸が苦しくなった。彼女が自分を忘れた理由、それは自分を守るための選択だったのかもしれない。彼女が失ったものを取り戻すことは、同時に彼女の心に傷を深く刻むことでもあった。


「でも、もう一度生きていこう。君はここにいるんだから」


彼女は翔の言葉に耳を傾け、彼の温もりを心に感じた。


「うん、ありがとう、翔。私、頑張るよ」


彼女の目に希望の光が宿り、少しずつその心が癒されていく感覚を得た。記憶と共に歩む未来が、彼女にとって新たな一歩であることを知った。


こうして、彼女は自分の過去を受け入れ、新たな人生を築いていくことを決意した。彼女は自分自身を見つける旅を続けるのだった。


そして、彼女は知っていた。過去が苦しくても、未来には希望が待っていることを。


「ありがとう、翔。もう二度と忘れないよ」


机に飾った家族写真には、彼女の隣で恥ずかしそうに笑う翔のはにかんだ笑顔があった。






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