夏の終わり、街の片隅に佇む古びたアパートの一室で、若いカップル、美咲と健一は同棲を始めた。初めての共同生活に胸を膨らませていたが、その幸せは長くは続かなかった。隣の部屋から聞こえる奇妙な音が、次第に二人を不安に陥れていく。
夜になると、「キリキリキリ……」という、鋭い何かが擦れるような音が頻繁に響いてきた。錯覚か、それとも何かの前兆か。美咲は怯えた声で尋ねる。「ねえ、この音、気にしなくていいのかな?」「大丈夫だよ。古い建物だからさ。気にしすぎだよ」と健一は優しく答えたが、心の中では彼もまた不安を隠せなかった。その音がただの物音とは思えなかったからだ。
ある晩、二人は友人を招いてパーティーを開いた。ビールが空き、笑い声が響く中、隣から再び「キリキリキリ……」という音が。今度はいつもより鋭く、間隔も短い。まるで何かが必死に削っているかのようだった。友人たちは笑って「気にすんなよ!」と騒いだが、美咲の顔は曇ったままだった。「健一、本当に大丈夫なの?」彼女の声には不安が滲む。「ただの生活音だよ。ほら、みんな楽しんでるし」と健一は笑顔を浮かべたが、美咲の心には暗い影が広がり始めていた。
日が経つにつれ、音はさらに激しくなった。夜になると「キリキリキリ」と壁が震えるほど響き、時には「ドンッ!」という衝撃音が混じる。美咲は恐怖に駆られ、何度も健一に訴えたが、彼は「何でもないよ」と繰り返すばかりだった。
ある夜、美咲はついに決意した。「私、隣の部屋に行ってみる!」健一は驚いて「やめろよ、危なかったらどうするんだ」と止めたが、彼女は強い口調で「いいから、行くよ!」と譲らなかった。
隣のドアをノックすると、静寂の後、ドアがわずかに開いた。そこには虚ろな目をした中年男性が立っていた。青白い顔に異様な雰囲気が漂い、美咲は恐怖を覚えた。「あの、隣に住む美咲です。音が気になって……」と言いかけた瞬間、男性が静かに呟いた。「キリキリキリ……」背筋が凍りつき、美咲は「すみません!」と叫んで逃げ出した。だが、その恐怖は彼女の心に深く刻まれた。
部屋に戻ると、健一が不安そうに待っていた。「どうだった?」と聞かれ、彼女は震えながら「何かおかしいよ。あの目が……」と答えた。
その夜、二人は眠れなかった。壁の音はますます激しくなり、「キリキリキリ」に「ドンッ!」が加わる。まるで何かが這い寄ってくるような不気味さだった。美咲は震える声で「もう放っておこうよ」と言ったが、健一は黙ったままだった。
やがて健一は音の正体を確かめようと決心した。「美咲、俺が見てくるから待っててくれ」と言い、隣の部屋へ向かった。
ドアを開けると、そこには誰もいない。だが、奥から「キリキリキリ」という音が聞こえてくる。薄暗い部屋を進むと、崩れた家具の間に何かの死体が転がっていた。驚愕に目を見開いた瞬間、背後から「キリキリキリ……」と音が近づいてきた。振り返ると、あの中年男性が立っていた。「お前も悪事の代償を払うときが来た」と呟く声。健一は恐怖で動けず、男性がゆっくり手を伸ばしてきた。
「お前の罪は逃れられない……」
その瞬間、すべてが暗転した。
美咲は健一が戻らないのを不安に思い、隣の部屋へ向かった。ドアを開けると彼の姿はなく、ただ「キリキリキリ……」という音だけが響いていた。部屋の奥へと足を踏み入れた美咲は、そこで目を疑う光景を目にする。崩れた家具の山の中に、健一の変わり果てた姿があった。彼の体は、まるで人形のようにバラバラにされ、内臓が引きずり出されていた。そして、その傍らには、あの男がいた。男は血まみれの工具を手に、静かに美咲を見つめていた。
「キリキリキリ……」
男が工具を擦り合わせる音が、静かな部屋に不気味に響く。美咲は悲鳴を上げようとしたが、喉が張り付いて声が出ない。男はゆっくりと美咲に近づき、冷たい声で囁いた。
「お前たちも、ここで償うんだ」
美咲は逃げようとしたが、足が震えて動かない。男は工具を振り上げ、美咲に襲いかかった。次の瞬間、彼女の視界は真っ赤に染まり、意識は闇へと落ちていった。
数日後、アパートの住人が異臭に気づき、警察に通報した。駆けつけた警察官が部屋に入ると、そこには変わり果てた美咲と健一の姿があった。二人の体は、まるでパズルのように組み合わされ、壁には血で何かを描いたような跡が残っていた。そして、部屋の隅には、あの男が静かに座っていた。男は警察官を見上げ、歪んだ笑みを浮かべながら呟いた。
「悪事の代償は、永遠に続く……」
事件後、アパートは取り壊され、その場所には何も建てられなかった。しかし、近隣の住民たちは、夜になるとアパートがあった場所から「キリキリキリ……」という音が聞こえると噂した。そして、その音を聞いた者は、必ず不幸な死を迎えるという。悪事の代償は、形を変え、新たな恐怖となって街に蔓延し始めたのだ。