あの頃…

 残業帰りの田中は、静まり返った街を急ぎ足で歩いていた。夜の闇は、まるで冷たい手のように彼の心を掴み、急げば急ぐほど影が背後に迫ってくるような気がした。彼の心の中にわだかまる不安は、ふとした瞬間に思い出された。通り過ぎた公園の片隅に立っていた小男の姿。あの男子小学生が、暗い電柱の影からじっとこちらを見ていた。目が合った瞬間、田中は何か不気味なものを感じ、思わず視線をそらした。


「なんだ、あの子は…、こんな遅くに…。塾帰りかな?」

心の中で呟きながら、田中はそのまま歩を進めた。だが、気になって仕方なかった。あの子は何を考えているのか、何故あんなところにいたのか。心の隅でモヤモヤとした疑念が広がっていく。


「ビールでも買って帰るか」と、気を紛らわすように近くのコンビニへ寄ることにした。ドアを押し開けると、店内の明かりにホッとした気持ちが広がった。明るい灯りの中で、何気ない日常を感じる。しかし、すぐにその安堵は消え去った。突然、全ての電気が消え、真っ暗になったのだ。周囲にはただ静寂だけが広がっていた。


「え?停電?」

田中は声を上げたが、返事はない。店員の気配すら感じられない。視界が真っ暗な中で、ただ冷たい空気が全身を包み込む。手探りで壁に触れながら、目を慣らそうとじっとしていた。すると、足元に何か小さな気配を感じた。


「なんだ…?」

田中は心臓が高鳴るのを感じた。恐る恐る視線を下に向ける。目が慣れてくると、そこには不気味な男子小学生が数人、まるで影から這い出てきたように立っていた。彼らは無表情で、じっと田中を見つめている。


「あの…君たち、どうしたの?」

田中は声を震わせながら尋ねる。小学生たちの一人が、口を開いた。

「あのね、大人はみんな帰っちゃうから、私たちがここにいるの。」


「帰っちゃうって…何を言ってるんだ?」

田中は混乱した。彼らの言葉が脳裏に響き、恐怖がじわじわと広がっていく。子供たちの顔は真っ白で、光のない目で彼を見つめていた。


「おじさん、ここには帰れないんだよ。」

別の子供が言った。

「ここは、もう大人たちの場所じゃないから。」


「何言ってるのか、さっぱり分からない!」

田中は動揺し、後ずさりする。すると、さらに小学生たちが近寄ってきた。彼らの動きは滑らかで、まるで影が寄ってきているようだった。


「私たち、ずっとここにいるんだよ。」

一人が言った。目が合った瞬間、田中はその視線に何か異様なものを感じた。彼らの目には光がない。まるで、この世のものとは思えない冷たさが宿っている。田中は心の中で叫びたい衝動に駆られた。


「出て行く…出て行くんだ!」

田中は足を急かし、店の出口へ向かおうとした。しかし、彼の前には小学生たちが立ちふさがっていた。恐怖が彼の心を締め付け、思考が鈍っていく。


「おじさん、まだ帰れないよ。」

小学生たちが口を揃えた。

「私たちがいるから、まだ帰れない。」


その瞬間、田中は背後から冷たい風が吹き抜けるのを感じた。何かが彼を引き留めようとしている。心の奥底で感じる恐怖が、彼を動けなくさせる。彼は必死にその場から逃げ出そうとするが、足が動かない。目の前の子供たちに囲まれ、彼は身動きが取れなくなった。


「帰れない…帰れない…」

田中は呟いた。その時、彼の視界が揺らぎ、暗闇の中で小学生たちの顔が近づいてくる。彼らの表情は変わらず無表情で、ただ冷たく見つめている。田中は恐怖に押し潰されそうになりながら、何とか声を絞り出した。

「お願い、離れてくれ!」


その瞬間、彼は思い出した。彼もまた、かつては子供だった。無邪気に遊び、恐れを知らずに夜の街を駆け回っていた。だが、いつの間にかその無邪気さを失ってしまった。大人になり、いつのまにか世界の真実を知り、恐れを抱くようになったのだ。


「大人は、ここにはいられないんだよ。」

小学生の一人が囁いた。その声はまるで、彼の心の奥にある記憶を呼び覚ますように響いた。田中は、何か大切なものを失ってしまった気がした。心の中で、彼は不思議な感覚に包まれる。


「私は、帰りたい…」

田中は小さく呟いた。その瞬間、周囲が明るくなり、彼は突然コンビニの出口に立っていた。子供たちの姿は消えていた。


「え…?」

田中は呆然とした。周りには何もなく、ただ静かな夜道が広がっていた。彼は振り返るが、もはや小学生たちの姿はどこにも見当たらない。心臓がドキドキと高鳴り、田中は再び歩き出した。もう二度と、あの不気味な影に近づくことはないだろう。


だが、彼の心の奥には、かつての無邪気さが影を落としている。暗い夜道を歩くたび、彼は小男の視線を感じることがある。あの小学生たちは、彼を待っているのかもしれない。彼の帰りを、いつまでも…。




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