「あれ、今の音なんだ?」と、友人の信也が小声で呟いた。彼の目は不安げに揺れ、周りの暗がりを警戒するように見つめている。私たちは、今まさにその噂を耳にした町、消された町へ足を踏み入れたところだった。
この町には、数年前に住民が一晩で姿を消したという言い伝えがあった。何も残らず、まるで最初から存在しなかったように。どうしてもその真相を確かめたくて、私たちはこの町にやってきたのだ。しかし、着いた瞬間、空気が重く、どこか不気味な気配が漂っていることに気づいた。
「ほら、あそこに家がある。」と、信也が指さした先には、朽ち果てた古い家が立っていた。ドアは半開きで、風が吹くたびに「ギィィ…」と不気味な音を立てている。その音が、まるで誰かが中からこちらを見ているかのように感じさせた。
私たちは恐る恐る近づくと、突然「コツコツコツ…コツコツコツ…コツコツコツ…」と、背後から足音が聞こえた。振り返ると、誰もいない。心臓の鼓動が高鳴り、息を飲んだ。信也も同じように感じているのか、顔色が青ざめていた。
「大丈夫、誰もいないよ。」と、私は自分に言い聞かせるように言った。しかし、安心した瞬間、背後で再び「コツコツコツ」の音が響いた。今度は、より近くで、そして明確に。まるで誰かが私たちの後ろをついてきているようだ。
「ちょっと、もう帰ろうよ。」と信也が言ったが、私はそのまま古い家の方へ進むことにした。興味本位で入ってみたかったのだ。中に入ると、薄暗い部屋が広がっていた。窓はすべて板で塞がれ、ほとんど光が入らない。埃をかぶった家具が、まるで人々の記憶を封印しているかのように静かに佇んでいた。
「なんか嫌な感じだな。」信也がつぶやきながら、足元の埃を踏みしめる。「ザッ」と音がして、私たちの足元で何かが動いた。思わず飛び上がると、目の前の壁に掛けられた古びた写真が目に入った。それは、かつてこの町に住んでいた人々の写真。笑顔を浮かべた家族の姿が、今のこの不気味な雰囲気とは対照的だった。
「この町の人たち、どうして消えちゃったんだろうね。」私は心の中でつぶやいた。信也も何かを考えている顔をしていたが、その瞬間、再び「コツコツコツ」の音が響いた。今度は、確実に私たちの背後からだ。
「何かいる。」信也が顔を真っ青にして呟いた。私も背筋が凍りつき、思わず振り返る。だが、そこには何も見えなかった。ただ、薄暗い廊下が延びているだけだった。緊張が一瞬解けたが、次の瞬間、冷たい風が通り抜け、背筋に寒気が走る。
「もう帰ろう、お願いだ。」信也が声を震わせて言った。私は彼の目を見る。彼の恐怖は、私にも伝わってきた。だが、何か引き寄せられるように、私はその場に留まってしまった。
「ちょっと待って、何か見てくる。」そう言って、私は暗い廊下を進んでいった。心臓がバクバクと音を立てる。まるで何かが私を呼んでいるようだ。そこには、さらに古い部屋があった。ドアは開いていて、薄暗い光が漏れている。中に入ると、目の前に大きな鏡が立っていた。
その鏡には、私の後ろにいるはずの信也が映っていなかった。代わりに、見知らぬ顔の女性が映っていた。彼女は静かに微笑み、何かを囁いているようだった。その口元が動くたびに、耳元に「聞こえない…聞こえない…」という声が響く。
「信也!」私は叫んだ。振り返ると、彼の姿が消えていた。心臓が締め付けられるような恐怖が押し寄せる。「信也、どこにいるんだ!」叫びながら、私は廊下を駆け戻った。しかし、家の中は静まり返り、彼の姿はどこにも見当たらない。
「コツコツコツ…」その音だけが、私の耳に響いていた。次第にその音が近づいてくる。もう逃げられない。私は無我夢中で出口へ向かおうとしたが、ドアは固く閉ざされていて開かなかった。
「出して!助けて!」絶望の叫びが響く。だが、返事はない。恐怖が全身を包み込み、もう何も考えられない。心臓の音が「ドクンドクン」と大きくなり、耳鳴りがしてくる。
その瞬間、ドアが開いた。信也が帰ってきたのかと思いきや、そこにはあの女性が立っていた。彼女は無表情で、じっと私を見つめている。目が合った瞬間、全ての明かりが消え、周囲が真っ暗になった。
「彼女を消して…」という声が響く。「彼女を消して…」
気がつくと、私はその町の真ん中に立っていた。周りには誰もいない。町は静まり返り、ただ「コツコツコツ…」という足音だけが響いていた。私は、消された町の一部になったのだ。信也の姿は、もうどこにも見当たらない。私も、いつかあの鏡の中の女性のように、ここに残り続けるのだろうか。
その時、頭の中に響く声が繰り返す。「消して…消して…」まるで、私自身が消えてしまうのを待っているかのように。私の心臓が、恐怖で震えていた。
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