月の無い夜の漁

 北国の寒々とした漁港、夜空は雲に覆われ、月の光は一切感じられない。波の音だけが静寂を破る。漁師の健二は、男らしさを示すために今宵、ひとりで漁に出る決意を固めた。彼の背中には、仲間たちの笑い声が耳に残る。「月もないのに漁に出るなんて、勇気あるな」とからかわれたが、健二はその言葉を気にしなかった。


港の灯りは、まるで彼を見送るように瞬いていた。健二は小さな漁船に乗り込み、エンジンをかけた。波が船を揺らし、冷たい風が彼の頬を撫でる。漁師としての誇りが、心の奥底から湧き上がってきた。「幽霊なんて、ただの昔話だ」と彼は呟いた。


しかし、海に出るにつれて、健二の心には不安が広がっていく。言い伝えには、柄杓を持った幽霊たちが現れ、月のない夜に漁に出た者を海に沈めるという恐ろしい話がある。彼はその話を知っていたが、今はそれを思い出す余裕もなかった。エンジンの音が海の静寂を打ち破り、健二は漁網を海に投げ入れた。


時間が経つにつれ、波は次第に高くなり、空はますます暗くなっていった。健二は、まるで誰かに見られているかのような不安感に苛まれていく。

そして突然、何かが彼の漁船の周りを取り囲むように動き出した。波がざわめき、冷たい水しぶきが彼の顔にかかる。健二は慌てて周囲を見回した。


その瞬間、彼の目に映ったのは、海の上に浮かぶいくつもの白い影だった。幽霊たちだ。彼らはじっとこちらを見つめ、手に持つ柄杓をユラユラと振り回している。

健二の心臓は激しく鼓動し、冷や汗が背中を伝った。幽霊たちが彼の船に向かって近づいてくる。彼は恐怖を振り払おうと必死にエンジンを回したが、船は進むどころか、波に翻弄されている。


「帰りたい、帰らせてくれ!」


健二は叫んだが、幽霊たちは静かに船に迫ってくる。影たちの顔は見えないが、彼の心の奥深くに重い恐怖が根を下ろした。健二は恐怖に駆られ、波に逆らうように必死にエンジンをかけた。しかしエンジンはうんともすんとも言わず、波は彼の小さな漁船を容赦なく飲み込もうとしていた。


「お願いだ、助けてくれ!」


彼は絶望的な叫びを上げ、船を必死に操った。しかし、幽霊たちは冷たい笑みを浮かべ、船の周りを囲むように踊り続ける。彼の心の中で、仲間たちの言葉が繰り返される。


「月のない夜に漁に出るなんて、勇気あるな…」


その時、健二の中で一つの決断が生まれた。彼は恐怖に屈するのではなく、逆に幽霊たちに立ち向かおうと決意した。


「オメェらが何者かは知らないが、俺は漁師だ! 俺はオメェらなんかに負けてたまるか!」


彼は一心不乱にエンジンをかけ、振り切るように港へ向かった。

やがて漁港の灯りがが見え、仲間たちの声が聞こえてくる。

彼はもう一度振り返ったが、そこにはもう幽霊たちの姿はなかった。彼は港に着くと、思わず膝をつき、疲れ果てた身体を支えるのがやっとだった。


「おう、健二! 無事だったか?」仲間たちが集まってきた。彼は何も言えず、ただ頷くしかなかった。


その夜、健二は眠れずにいた。幽霊たちの冷たい視線が、今でも彼の心を掻き乱していた。彼は思う。


「俺は本当に勝ったのか?それとも、あの幽霊たちに見逃されたのか?」


その疑念は、彼の心の中で消えることはなかった。


月のない夜、漁に出ることの恐ろしさ。それは単なる言い伝えではなく、彼の心の奥深くに刻まれた教訓となった。次の月のない夜、健二は海に出ることを躊躇し、彼が見た幽霊たちの影が、再び彼を脅かすことを恐れていた。彼の心の中に潜む不安は、もはや彼の一部となっていたのだ。






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雨の日の出来事

 雨の日の午後、俺は部屋の窓から外を眺めていた。マンションの三階にあるこの部屋は、街の喧騒から少し離れた静かな場所にあった。雨がしとしとと降り続く中、ひとしきりぼんやりと街を眺めていた俺の視線は、街灯の下でじっと佇む女性に向けられた。彼女は、傘もささずに、ただ立ち尽くしていた。その姿は、まるで時間が止まったかのように静止している。彼女の存在は、毎年この時期になると訪れる不気味な風物詩のようだった。


晴れた日には決して姿を見せず、雨が降ると必ずその場所に現れる。周囲の人々は、まるで彼女を見ることができないかのように、彼女の横をすり抜けていく。俺は、彼女が何を考えているのか、何を求めているのか、その答えを知る由もなかった。ただ、彼女の目には何か特別なものが宿っているように見えて、俺はいつもその視線を感じる気がした。


「また、あの女がいる…」


小さく呟いた言葉が、雨音に消えていく。彼女の正体に対する疑念が、心の奥で膨れ上がる。何か不気味なものを感じながらも、彼女の存在は俺の日常の一部になっていた。


その日、いつも通りに彼女を見つめながら、ふと安心感が訪れた。彼女がいない。雨も上がり、薄日が差し込んで来た。ホッとしたのも束の間、静寂を破るように、突然ドアのチャイムが鳴り響いた。けたたましい音に驚き、心臓がバクバクと音を立てる。


「誰だ…?」


恐る恐るドアノブを見つめるが、動けない。ドアノブがガチャガチャと回される音が続く。手が震え、思わず布団に潜り込んで耳を塞いだ。今、ここに自分がいることが恐ろしい。あの女性が、ついに俺の元へ来てしまったのだろうか。彼女は、何を求めている?


その夜、布団の中で震えながら、俺は彼女のことを考え続けた。彼女が何を考えているのか、何を求めているのか、それを知る者はいない。朝が来るまで、恐怖で眠ることもできなかった。


朝になり、雨の音が消え、外の世界が静まりかえった。恐る恐る外を覗くと、彼女の姿はもうなかった。まるで、彼女がこの世から消え去ったかのようだった。安心感が胸に広がる反面、どこか物足りなさを感じる。


だが、彼女の存在は消えても、あのドアの音は忘れられない。あの瞬間、何かが俺の中で変わってしまった。無邪気な日常が、恐怖へと変わった。その後、俺は彼女のことを忘れようと努力した。だが、雨の日になると、どうしても彼女のことを思い出してしまう。


数日後、また雨が降り始めた。街の灯りがぼんやりと光り、俺はどうすることもできずに窓の外を見つめる。心の中に不安が渦巻く。彼女が現れるのではないかという恐怖が、頭をよぎる。身体が硬直し、手には冷や汗が滲んでいた。


そして、夕方になり、街灯の下に彼女の姿が見えた。傘をささず、ただじっと立っている。俺の心臓は再び早鐘のように鳴り響く。彼女の目が、まるで俺を捉えているかのように感じた。逃げ出すこともできず、視線が離せない。何かが迫ってくる、ただの雨の日の幻影ではない。彼女の存在が、俺の運命を変えるのかもしれないという恐怖が、再び心を覆い始めた。

雨がしとしと降る夜。

俺はいつまでも電灯の下に佇む女から目を離せずにいた…。





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虚ろの町、虚ろな夜

 彼は飲み会の帰り道、電車の座席で酔いにまどろんでいた。電車の揺れが心地よく、彼の意識は次第に遠のいていく。周囲の喧騒が次第に薄れ、彼の心は静寂に包まれた。彼は、仕事のストレスを忘れ、ただ単に流されるままに寝入ってしまった。


しばらくして、彼はふと目を覚ました。周りは暗く、車両の中は誰もいない。乗客の姿は消え、ただ彼一人だけが取り残されていた。

電車は知らない駅に停車し、静寂が重くのしかかる。彼は不安を感じながらも、何とか立ち上がると、ドアを開けて外へ出た。


ホームも薄暗く、腐敗した匂いが立ち込めている。コンクリートの壁はひび割れ、雑草が生い茂り、まるで廃墟のような、そして時間が止まったかのような光景だった。

彼は立ち尽くし、周囲を見渡す。人の気配はまったくない。駅名表示板は錆び付き、読み取ることすらできなかった。


「ここは…どこなんだ?」


心細さが彼の胸を締め付ける。彼はフラフラと駅の外へ向かった。

町並みも荒れ果て、家々は崩れ落ち、空はどんよりとした灰色に覆われている。まるで悪夢の中にいるかのようだった。

彼の心に恐怖が広がり、常識では考えられない状況に戸惑いが深まる。


「もう一度、電車に戻ろう…」


彼はそう思い、駅へ向かう途中で目の端に何か異様なものを感じた。振り向くと、そこには黒い影がちらりと見えた。彼は心臓が高鳴るのを感じながら、視線を逸らすことができなかった。


「誰かいるのか?」


声をかけると、影は一瞬動きを止めたが、すぐに離れていった。彼は恐怖と興味が入り混じりながら、その影を追いかけた。だが、影はすぐに消えてしまう。現れては消えを繰り返し、まるで彼をからかっているかのようだ。

彼の心の中に不安が渦巻く。なぜ誰もいないのか、この町に何が起こったのか、答えが見つからない。


彼は彷徨う中で、次第に周りの景色が歪んでいくのを感じた。廃墟と化したした町並みが彼に近づいてくるような感覚。彼は足元がふらつき、意識が遠のいていく。周囲の音は消え、ただ彼の心臓の音だけが響いていた。


「お願い、誰か助けてくれ…」


彼は叫んだが、その声は空虚に吸い込まれてしまった。周囲は静まり返り、彼は孤独感に苛まれた。目の前の影が徐々に近づいてくる。彼は逃げようとするが、身体が動かない。まるで何かに縛られているかのようだった。


次第に影が彼を取り囲む。恐怖が全身を駆け巡り、彼は意識が遠のくのを感じた。その瞬間、どこか遠くで鈴の音が聞こえた。彼はそれ鈴の音に引き寄せられるように、自らの意識を奪われていく。


気がつくと、彼は最寄り駅のベンチに座っていた。周囲は明るく、普通の街の風景が広がっていた。人々が行き交い、電車の音が聞こえる。彼は自分の状況を理解できなかった。夢だったのか、それとも別の世界だったのか。


「何が起こったんだ…?」


彼は頭を抱えた。飲み会の帰りに酔って寝てしまったはずだ。その後の記憶はまるで曖昧だ。周囲の人々は彼のことを気にも留めず、忙しそうに行き交う。彼は何が現実で、何が幻想なのか、判断がつかなかった。


心の中で何かが叫んでいる。あの腐敗した廃墟の町や影たちの正体は何だったのか。彼は自らの恐怖を思い出し、目を閉じる。すると、また鈴の音が聞こえた。彼はその音に導かれるように、再び目を開ける。


周囲は変わらず、何もなかったかのように感じる。しかし、その瞬間、彼の心の奥底で何かが揺れ動いた。

何かはわからない。

ただ心が荒廃していくのがわかった。


彼は立ち上がり、駅の出口へ向かう。

彼の目は虚ろで何も見えていないようだった。






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キツネに化かされる

 夜の街は静まり返っていた。薄暗い路地裏の街灯が、まるで虫のように小さく光り、周囲をぼんやりと照らしている。サラリーマンの彼は、疲れた足を引きずりながら帰路についた。スーツの肩は汗で濡れ、ネクタイは緩んでいる。仕事のストレスが心の奥に重くのしかかり、彼は早く家に帰りたい一心だった。

だが、彼がいつも通る道を進むにつれて、何かがおかしいと感じ始めた。いつものコンビニの前で、彼は立ち止まった。普段の賑わいはどこへやら、店の前に立っているのは一匹のキツネだった。月明かりに照らされたその姿は、まるで夢の中の生き物のように幻想的で、しかしどこか不気味でもあった。

「おい、君、どうしたんだ?」
彼はキツネに声をかけた。キツネは彼の方をじっと見つめ、何か言いたげにしっぽを振る。まるで話しかけているかのように、彼の心に何かが響いた。だがその瞬間、彼の背筋に冷たいものが走った。何か不吉な気配を感じたのだ。

「もう帰らなきゃ…」
彼は自分に言い聞かせた。しかし、キツネはその場から動かず、まるで彼を誘うかのように、目を細めてこちらを見ていた。好奇心が彼を引き止めた。心のどこかで、このキツネが何か特別な存在だと感じたのだ。

「おい、何があるんだ?」
彼はキツネの方へ近づいた。すると、キツネは一瞬、目を輝かせて、何かを指し示すように前足で地面を叩いた。彼はその方向に目を向けたが、何もない。ただの道端に過ぎなかった。

だが、彼の心に恐れが芽生え始める。キツネの目が、その瞬間、彼を捉えた。まるで彼の心の奥を覗き込まれているかのような感覚が広がった。胸が高鳴り、全身が緊張する。

「やっぱり帰る。」
彼は後退りをしようとしたが、その時キツネが動いた。その動きは美しく、まるで踊るようだった。彼は目を奪われ、思わずキツネの後を追ってしまった。キツネは彼を導くように、路地裏へと入っていく。

薄暗い路地は、まるで迷路のように絡み合い、彼は次第に方向感覚を失っていった。周囲が静まり返る中、キツネの姿がどこか遠くに見え隠れしている。彼は不安を覚えたが、同時にその不安がどこか心地よいとも感じていた。現実から逃げ出したいという欲望が、彼をキツネの後ろへと駆り立てたのだ。

「おい、どこに行くんだ?」
呼びかけても、当たり前だがキツネは無言のまま進み続けた。
路地の奥へと進むにつれて、周囲の景色が変わっていく。冷たい風が吹き抜け、彼は背筋が凍る思いをした。目の前に広がるのは、まるで異次元からやってきたかのような、不気味な光景だった。

巨大な木々が立ち並び、地面には黒い泥が広がっている。その泥は生き物のようにうねり、ぬめぬめとした感触で彼の靴を捕らえた。思わず立ち止まると、キツネは振り返り、彼を見つめる。その目には、まるで何かを試されているような冷たい光が宿っていた。

「戻りたい…」
彼は心の中で叫んだが、体は動かない。恐怖が彼を包み込み、キツネはその様子を楽しむかのように、更に奥へと進んでいく。彼は意志に反して、その後を追うしかなかった。

次第に、周囲の音が消え、静寂だけが支配するようになった。心臓の鼓動が大きく響き、彼の耳にはキツネの足音だけが聞こえていた。それはまるで、彼を見つめる目が何かを待っているかのようだった。

そして、ふと気がつくと、彼の目の前に一つの小屋が現れた。古びた木の扉がかすかに開いており、内部からは薄暗い光が漏れ出ていた。好奇心と恐怖が交錯する中、彼はその小屋に近づいた。

「この中に何があるんだ…?」
彼の心に疑問が渦巻いた。しかし、キツネは彼を促すように、扉の方へと導いた。無意識のうちに、彼は扉を押し開けた。

小屋の中は、異様な雰囲気に満ちていた。壁には古びた写真や、奇妙な道具が散乱している。床には黒い泥が広がり、まるで生き物のようにうごめいている。彼の心に恐怖が走ったが、同時に何かに引き寄せられる様な感覚もあった。

「ここは…何なんだ?」
彼は呟いた。すると、背後からキツネの声が聞こえたような気がした。「お前が求めていた場所だ。」

その瞬間、彼の目の前に巨大な鏡が現れた。鏡の中には、自分自身が映っている。しかし、映っているのは彼の姿だけではなかった。背後には無数のキツネたちが、彼を見つめていた。その目は冷たく、まるで彼を捕らえようとしているかの様だった。

「何だこれは!」
彼は恐怖に駆られ、後退りしようとしたが足が動かなかった。逃げようとしても、動けない。彼の心を支配する恐怖が、彼をその場に縛りつけていた。

「お前はここに来た。もう逃げられない。」
キツネの声が響いた。彼の心に強烈な恐怖が走り、彼は絶望に打ちひしがれた。どれだけ叫んでも、誰も助けに来ない。彼は一人、キツネたちに取り囲まれ、逃げ場を失っていた。

やがて、彼の意識は薄れていった。目の前の鏡が歪み、キツネたちが彼を飲み込んでいく。彼はただの一匹の獲物として、永遠にその場所に閉じ込められてしまった。彼の心の奥で、何かが崩れ去る音が聞こえた。

街灯が消え、静寂が広がる中、彼の姿はもうそこにはなかった。ただ、キツネだけが、月明かりの下で笑っているように見えた。彼の帰りを待つ人々は、もうその姿を二度と見かけることはなかった。

結局、彼が求めていたのは、恐怖ではなく、たった一つの安息だったのかもしれない。しかし、その安息は、彼が願ったものとはまったく異なる形で彼を捉えたのだった。


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トンネルの怪異

夕暮れ時。オレンジ色の光が街を包み、日が沈むにつれて影が長く伸びていく。そんな中、ひとりのサラリーマン、佐藤は帰路につくために車を走らせていた。普段は渋滞する大通りを使うが、今日は思い切ってトンネルの方へと向かうことにした。


トンネルは最近使われることも少ないか、佐藤には通り慣れた道ではあった。
周囲の風景が変わっていく中で、トンネルだけは昔のままだなと、佐藤は思った。古びたコンクリートの壁、ところどころに見える苔、そして薄暗い照明。まるで時が止まっているかのような空間だった。

「なんだか今日は変だな…」
佐藤は心の中で呟いた。普段は何も感じないはずのトンネルの中、彼の心の奥底に小さな不安が芽生え始めた。
運転しながら、彼はふと窓の外を見ると、何かが視界の隅を横切る。人影のように見えたが、すぐに消えてしまった。

「気のせいだ、気のせいだ」
と自分に言い聞かせるが、心臓はどくんどくんと早鐘のように鳴り始めた。トンネルの中は静寂に包まれ、エンジン音だけが響く。まるで誰かに見られているような感覚が彼を襲った。

その時、突然車のライトがふっと暗くなった。ハッとした佐藤は思わずハンドルを握りしめた。ライトが戻ると、彼の目の前には若い女性が立っていた。髪は長く、白いワンピースを着ている。顔はぼんやりとしていて、目がどこか虚ろだ。

「な、なんだ…?」
言葉が出ない。彼女は何も言わず、ただこちらを見つめている。佐藤は急ブレーキをかけた。車がタイヤを鳴らしながら止まる。心臓が口から飛び出しそうなほどの恐怖が彼を襲った。

「お願い、助けて…」
彼女の声は風の音のようにかすかだが、その言葉は彼の耳に鮮明に響いた。
何かが彼の中で弾ける。
助けるべきか、逃げるべきか。
彼は迷った末、再びアクセルを踏み込んだ。

次の瞬間、トンネルの壁に何かがぶつかる音がした。彼は振り返った。そこには何もない。全てが静まり返っている。冷や汗が佐藤の背中を流れ落ちた。

「違う、違うんだ…」
心の中で叫びながら、トンネルを抜けようと必死になった。だが、次々に異変が起こる。視界の端で、さっきの女性がまた現れる。今度はトンネルの反対側からこちらを見つめている。その表情は、ただ怯えた目にしか見えない。
車が外側からバンバン叩かれる。
走っている車のあらゆる場所がバンバンと。

「何が起こっているんだ?」
彼は混乱し、運転に集中できなくなった。突然、車の温度計が急激に上昇し、エンジンが悲鳴を上げる。焦りが彼の心を支配し、頭の中が真っ白になった。

「助けて…」
その声が再び耳に響く。彼の背筋は凍りついた。助手席に目をやると、そこには血まみれの子供が座っていた。彼女もまた、助けを求める目をしていた。瞬間、彼は急ブレーキをかけた。

「何が本当なんだ!?」
叫び声が耳に響く。彼は混乱し、何もかもが現実でないように思えた。トンネルの壁が迫る。彼はハンドルを切り、なんとか車を前に進ませた。

トンネルを抜けた時、彼は夜の闇に包まれた。車は無事だったが、心の中には重いものが残った。後ろを見ると、トンネルの入り口はまるで何事もなかったかのように静まり返っていた。しかし、彼にはその中で起こったことが決して忘れられない記憶として残る

「二度とこの道は通らない」と彼は心に誓った。だが、ふと振り返ると、トンネルの入り口の近くに女性が立っていた。女性がこちらを見つめている。彼女の目は、まるで助けを求めるように光っていた。恐怖と後悔が彼の心を締め付ける。

「何を伝えたいのか、分からない…」と、佐藤は呟いた。もしかしたら、彼女はただ孤独で、助けを求めていたのかもしれない。しかし、彼はその恐怖から逃げることを選んだ。彼の選択が正しかったのかどうかは、もう誰にも分からない。








古びた町に迷い込む

 秋の爽やかな風が吹く休日、飯田と佐藤の二人は、久しぶりのドライブを楽しむことにした。目的地は、山を越えた先にある小さな町だ。普段の喧騒から離れ、自然の中でリフレッシュすることが目的だった。車の窓を全開にし、流れる景色に身を任せながら、彼らは笑い声を交わし続けた。

「この辺り、いい雰囲気だな。」飯田が言う。 「マジで。こういう自然の中で過ごすの、久々だよ。」佐藤も同意し、助手席から外を見つめる。彼の視線の先には、色づき始めた木々と青空が広がっていた。 しかし、山道に入ると、道は次第に細くなり、周囲の景色が変わっていった。木々が生い茂り、時折、カラフルな鳥の声が耳に入る。だが、途中で地図を見ても、彼らがいる場所はどこか分からなくなる。何度も曲がりくねった道を走り続け、気がつけば、二人は小さな町の入り口に辿り着いた。 「ここが目的地なのかな?」飯田が不安げに言った。 「多分、そうだろう。でも、なんか雰囲気違くない?」佐藤は感じた違和感を口にした。町の様子は、まるで時が止まったかのようだった。昭和の香りが漂う古い家々、商店の看板は色あせ、住民たちも異様な静けさを保っている。 彼らは車を停め、町を歩き始める。道を尋ねるために、近くにいたおばあさんに声をかけた。しかし、彼女の答えは理解しがたい言葉だった。 「ここは昔からこのままじゃ。あんたら、どこから来たんじゃ?」 「えっと、東京からです。」飯田が言うと、おばあさんは不思議そうな顔をした。 「東京?あんな遠いところから、何しに来たんじゃろ?」 その会話は、まるで噛み合わなかった。驚きと戸惑いが飯田と佐藤の心を支配する。周囲の住民たちも、彼らに視線を向けるが、誰も声をかけてこない。まるで彼らがこの町にいることが許されていないかのようだった。 「ちょっと、ここから出ようぜ。」佐藤が不安を隠せずに言った。 「そうだな、夜になる前に脱出しよう。」飯田も同意する。 彼らは急いで車に戻り、町を出るために再び道を進んだ。しかし、帰り道も同じように感じる。どれだけ走っても、町は後ろに見えない。彼らの心の中には、恐怖がじわじわと広がっていく。 「おい、あれ見ろ!」佐藤が指差した先には、町の入口に立つ古びた看板があった。「昭和町」と書かれている。 「昭和町…?なんだこれ、本当にここは昭和のままなんじゃないか?」飯田は言葉を失った。二人は何か恐ろしい秘密に迫っているのではないかと感じた。 再び町に戻り、道を尋ねることにした。今度は若い男性に声をかけたが、彼もまた不思議な表情を浮かべていた。 「ここから出たいんですけど、道を教えてもらえますか?」 「出る?お前ら、ここがいいところだろうが。何も知らんのか?」男性は笑みを浮かべながら答える。 その瞬間、飯田と佐藤は背筋が凍る思いをした。町の住民たちが彼らを見ている。目がじっとこちらを見つめる。まるで彼らを逃がさないかのように。 「なんだ、ここは…」佐藤が言葉を失った。彼らはこの町が自分たちを受け入れない、いや、受け入れたくない場所だということに気づいた。時代を超越した異次元のような場所で、自分たちが迷い込んでしまったのだ。 焦りを感じながら、二人は再び車に飛び乗った。エンジンをかけ、必死にアクセルを踏む。だが、どんなに急いでも道は一向に見つからなかった。時計は既に夕暮れを迎え、薄暗くなり始めている。 「頼む、どこかに出てくれ…。」飯田が呟く。心臓がバクバクと音を立て、冷や汗が額を流れる。彼らは、昭和の町から逃げることができるのか。 その時、ふと見えた明かりがあった。道の先に、薄暗い光が揺れている。二人はその方向に向かった。光が近づくにつれて、町の景色が変わり、住宅街から抜け出せる兆しが見えた。 「行ける、行けるぞ!」佐藤が声を上げる。彼らは希望を抱き、光の方へ向かって突き進んだ。 やがて、明るい光の中にたどり着いた。そこは、町の出口だった。道が開け、二人は一瞬ホッとした。しかし、その瞬間、後ろから響く声が聞こえた。 「お前ら、戻ってきたらいけんぞ!」 振り返ると、町の住民たちが群がっていた。その目は、まるで彼らを捕まえようとするように光っていた。彼らは恐怖に駆られ、車を急発進させた。 「逃げろ!」飯田が叫ぶ。アクセルを踏み込み、町を後にした。振り返ると、昭和町は徐々に小さくなり、やがて見えなくなった。 彼らは無事に町を脱出したが、心に残るものは不安と疑念だった。あの町は一体何だったのか?時間が止まったような場所で、住民たちの笑顔の裏には何が潜んでいたのか。 「もう二度と、あんな所には行かない。」佐藤が呟いた。 「だな、俺も。」飯田は同意し、二人は静かに帰路についた。 その後、彼らはその町のことを忘れようとした。だが、時折夢に見ることがあった。昭和町の住民たちが、彼らに向かって笑っている夢を…。 結局、二人はその町のことを誰にも話さなかった。恐ろしい経験を共有することは、彼らにとってあまりにも重すぎたのだ。そして、あの町が存在したのかどうかも分からなくなった。 町のことは忘れたはずなのに、心の奥底にはいつまでもその影が残っていた。何かを忘れ去ることは、時に心に重い鎖を残すのかもしれない。


『彼岸花が咲く季節 また逢う日を楽しみに』

 彼岸花が咲く季節、空はどこか不穏な色をしていた。風は冷たく、どこからともなく漂ってくる湿気が、肌をじっとりと覆う。田舎町の小道を歩くと、道端に群生する彼岸花が目に飛び込んできた。赤い花弁は、まるで血のように鮮やかだった。彼岸花は決して散らないまま、葉っぱが出てくることはない。そのことを知ったとき、何かが心の奥に引っかかるような感覚を覚えた。


その日、友人の由紀と彼女の恋人である翔太の話を思い出した。二人は高校時代からの親友で、何度も一緒に遊んだし、時には喧嘩もした。特に彼岸花の咲く頃には、近くの公園に出かけては、花を見ながら色々な話をしたものだ。だが、その年の秋、彼岸花が満開になる前に、翔太は不幸な事故に遭ってしまった。由紀はその知らせを聞いたとき、まるで世界が崩れ去るような感覚に襲われたという。彼女の涙は、彼岸花の赤と同じ色だった。


由紀は学校を休みがちになり、家に引きこもるようになった。友達を呼ぶこともなく、ただ彼岸花が咲くのを待っていた。その姿は、まるで彼女が翔太を失ったことを受け入れられないかのようだった。彼女の心の中には、翔太との思い出が色濃く残っていたが、彼を再び見ることはできなかった。


「彼岸花は、散らないんだよね」と、ある日、由紀は呟いた。彼女の声は、まるで風に乗って消えていくようだった。私はその言葉に、胸が締め付けられる思いがした。彼女は翔太を失った悲しみに加え、彼岸花の特性に対する恐れにも苛まれているのだ。翔太が二度と会えないという現実を、彼女はどのように受け止めているのだろうか。


秋が深まるにつれて、彼岸花はますます目立つようになった。赤い花は、まるで彼女の心を引き裂くような存在に感じられた。由紀はその花を見つめるたびに、翔太のことを思い出し、涙が止まらなくなった。彼女の心の中には、彼岸花が散らないことで二人の関係が永遠に続いているという考えと、実際には翔太がいないという現実が交錯していた。


そんなある日、由紀は公園で一人、彼岸花の咲く場所に座っていた。周りには誰もいない。彼女は手に持った花をじっと見つめ、一言つぶやいた。「翔太、いるの?」その瞬間、風が吹き、彼岸花が揺れた。彼女はそれを翔太が返事をしたかのように感じた。心の中で何かが弾け、涙が溢れた。翔太は、彼岸花の中にいるのだと信じたくなった。


しかし、その夜、由紀は夢を見た。翔太が現れ、彼女に言った。「もう、さよならだよ」。その言葉に、彼女は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。翔太の顔は優しかったが、その目は悲しみに満ちていた。彼女はどうしても翔太に引き留めたかったが、次の瞬間、彼は消えてしまった。


彼岸花が満開になる頃、由紀は再び公園に足を運んだ。赤い花々が彼女を迎え入れる。彼女は花を一輪摘み、翔太に捧げるように頭を下げた。「ごめんなさい、翔太。私、あなたを忘れたくない。でも、もう、さよならを言わなきゃいけないのかな」と呟いた。涙が頬を伝い、彼岸花の赤が彼女の心に焼きついた。


その日、由紀は翔太のことを思い出しながら、彼岸花を見つめていた。彼女は彼を思い続けることができたが、彼がいない現実も受け入れなければならなかった。彼岸花は、彼女の思い出を鮮やかに彩り続けていたが、同時に彼女に別れを告げるように迫ってきた。


数日後、彼女は彼岸花を見かけるたびに、翔太との思い出を優しく抱きしめることに決めた。彼がいなくても、彼との時間は永遠に心に刻まれているのだと。彼岸花は、散らないまま、彼女の心の中で生き続ける存在となり、二度と会うことができない悲しみを背負いながら、彼女を見守ることになるだろう。


そして、彼女はそれを受け入れ、彼岸花の咲く季節を迎えるたびに、翔太を思い出しながら生きていくことを決意した。人生は続くのだ。そして彼岸花の赤が、彼女の心の中で愛と悲しみの交錯を描き続ける。





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おーい!

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レストラン「ノクターン」

 夜の街は静まり返り、月明かりが薄暗い路地を照らしている。そんな街の外れにひっそりと佇むレストラン「ノクターン」。その名の通り、深夜まで営業しているため、時折、ふらりと立ち寄る客がいる。


店内は薄暗く、木製のテーブルや椅子が並び、壁には古い写真が飾られている。かつての街の賑わいを映し出しているかのようだが、今は客足もまばら。厨房からは時折、鍋の音が響く。ひとりで働く店主の田中は、そんな静寂の中で、時に不気味さを感じていた。


「またあの客が来るんだろうな」と田中は思う。彼が言う「あの客」とは、深夜に現れる常連客のことだ。いつも同じ席に座り、いつも同じメニューを注文する。彼の存在は、どこか異様で、田中の心に不安を募らせていた。


その客は、黒いコートを羽織り、目元を隠す帽子をかぶっている。顔は見えないが、その存在感は圧倒的だった。彼が入ってくると、店内の空気が冷たくなるような気がする。常連の彼は、何度もこの店に来ているが、田中は彼と話したことがない。いつも無言で、食事を終えると、さっさと去っていく。


「彼は一体何者なんだろう」と田中は考える。常連客の中には、何か特別な思いを抱えている人もいるかもしれない。しかし、あの客はまるで、何かを隠しているかのようだ。彼の視線が、まるで過去を見つめるように感じるのだ。


ある夜、田中はその客の姿を見逃さないように、じっと観察していた。彼が座る席の向かい側には、古い鏡がかかっている。鏡に映る客の姿を見て、田中の心臓は一瞬止まった。客の背後には、薄い人影が立っている。まるで、彼を見守るかのように。


「あれは…誰だ?」田中は恐怖を感じた。その人影は、まるで霧のようにぼんやりしており、客の後ろで揺らめいている。田中は思わず声を上げそうになったが、口をつぐんだ。もし声を発したら、客は振り向くかもしれない。それが恐ろしいことだと直感した。


客が食事を終えると、田中は思い切って声をかけることにした。「お待たせしました。お会計は…。」言葉を続けようとするが、客はゆっくりと顔を上げた。その瞬間、田中は背筋に冷たいものを感じた。客の目は虚ろで、まるで生気を失った人形のようだ。


「…頼む。」客の声は、まるで遠い過去からの囁きのようだった。田中は思わず後ずさりした。彼の目の前には、血のように赤いスープが盛られた皿が置かれている。そのスープが、何かを訴えかけているように感じた。


「これは…」田中が言いかけたその時、客の後ろに立っていた人影が、彼の耳元で囁いた。「彼は、私たちの一部だ。」


田中は心臓が凍りつく思いだった。人影は、かつてこのレストランに来た客の霊だった。彼は、あの客が自分たちの仲間だと告げているのだ。田中はその意味を理解することができなかった。客の背後には、他にも何人かの影が見える。全員が、彼を見守っているのだ。


「私は、ここに居続ける。」客は静かに告げた。「君も、私たちの仲間になるだろう。」


その瞬間、田中は我を忘れて逃げ出した。レストランの扉を開けると、冷たい風が吹き抜けた。外に出ると、街は静まり返っていた。だが、振り返ると、レストランの窓からは、あの客の姿が見えた。虚ろな目をした彼は、田中に向かって微笑んでいるようだった。


逃げる足は止まらない。田中は必死に走り続けた。彼の心には、あの客とその後ろに立つ霊たちの姿が焼き付いていた。何度も振り返りたい衝動に駆られたが、恐怖がそれを許さなかった。


「何者なんだ、あの客は…。」田中は心の中で問い続けた。街の外れにあるそのレストランは、ただの深夜営業の店ではなかった。過去の客の霊が、今もなお、現れる場所だったのだ。


月明かりが薄れ、闇が深まる中、田中は自らの運命を悟った。あのレストランは、ただの食事の場ではなく、彼らの集う場所。いつか、また戻ってくる運命を背負った場所だ。


果たして、田中はその後、再び「ノクターン」の扉を開けることができるのだろうか。彼の心に残る問いは、深夜の静けさに消えていく。しかし、あの客の微笑みは、永遠に心の奥底に刻まれることになるだろう。



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