北国の寒々とした漁港、夜空は雲に覆われ、月の光は一切感じられない。波の音だけが静寂を破る。漁師の健二は、男らしさを示すために今宵、ひとりで漁に出る決意を固めた。彼の背中には、仲間たちの笑い声が耳に残る。「月もないのに漁に出るなんて、勇気あるな」とからかわれたが、健二はその言葉を気にしなかった。
港の灯りは、まるで彼を見送るように瞬いていた。健二は小さな漁船に乗り込み、エンジンをかけた。波が船を揺らし、冷たい風が彼の頬を撫でる。漁師としての誇りが、心の奥底から湧き上がってきた。「幽霊なんて、ただの昔話だ」と彼は呟いた。
しかし、海に出るにつれて、健二の心には不安が広がっていく。言い伝えには、柄杓を持った幽霊たちが現れ、月のない夜に漁に出た者を海に沈めるという恐ろしい話がある。彼はその話を知っていたが、今はそれを思い出す余裕もなかった。エンジンの音が海の静寂を打ち破り、健二は漁網を海に投げ入れた。
時間が経つにつれ、波は次第に高くなり、空はますます暗くなっていった。健二は、まるで誰かに見られているかのような不安感に苛まれていく。
そして突然、何かが彼の漁船の周りを取り囲むように動き出した。波がざわめき、冷たい水しぶきが彼の顔にかかる。健二は慌てて周囲を見回した。
その瞬間、彼の目に映ったのは、海の上に浮かぶいくつもの白い影だった。幽霊たちだ。彼らはじっとこちらを見つめ、手に持つ柄杓をユラユラと振り回している。
健二の心臓は激しく鼓動し、冷や汗が背中を伝った。幽霊たちが彼の船に向かって近づいてくる。彼は恐怖を振り払おうと必死にエンジンを回したが、船は進むどころか、波に翻弄されている。
「帰りたい、帰らせてくれ!」
健二は叫んだが、幽霊たちは静かに船に迫ってくる。影たちの顔は見えないが、彼の心の奥深くに重い恐怖が根を下ろした。健二は恐怖に駆られ、波に逆らうように必死にエンジンをかけた。しかしエンジンはうんともすんとも言わず、波は彼の小さな漁船を容赦なく飲み込もうとしていた。
「お願いだ、助けてくれ!」
彼は絶望的な叫びを上げ、船を必死に操った。しかし、幽霊たちは冷たい笑みを浮かべ、船の周りを囲むように踊り続ける。彼の心の中で、仲間たちの言葉が繰り返される。
「月のない夜に漁に出るなんて、勇気あるな…」
その時、健二の中で一つの決断が生まれた。彼は恐怖に屈するのではなく、逆に幽霊たちに立ち向かおうと決意した。
「オメェらが何者かは知らないが、俺は漁師だ! 俺はオメェらなんかに負けてたまるか!」
彼は一心不乱にエンジンをかけ、振り切るように港へ向かった。
やがて漁港の灯りがが見え、仲間たちの声が聞こえてくる。
彼はもう一度振り返ったが、そこにはもう幽霊たちの姿はなかった。彼は港に着くと、思わず膝をつき、疲れ果てた身体を支えるのがやっとだった。
「おう、健二! 無事だったか?」仲間たちが集まってきた。彼は何も言えず、ただ頷くしかなかった。
その夜、健二は眠れずにいた。幽霊たちの冷たい視線が、今でも彼の心を掻き乱していた。彼は思う。
「俺は本当に勝ったのか?それとも、あの幽霊たちに見逃されたのか?」
その疑念は、彼の心の中で消えることはなかった。
月のない夜、漁に出ることの恐ろしさ。それは単なる言い伝えではなく、彼の心の奥深くに刻まれた教訓となった。次の月のない夜、健二は海に出ることを躊躇し、彼が見た幽霊たちの影が、再び彼を脅かすことを恐れていた。彼の心の中に潜む不安は、もはや彼の一部となっていたのだ。